天国に渡邊寧先生をお訪ねして by 加藤2017/08/27 11:57

加藤兄のコメント:
10年前(2006年)に書いた“渡辺先生の想い出”を書き直しましたので、ご笑覧に供します。                       

                            天国に渡邊寧先生をお訪ねして
                                                                                               加藤 和明

   近過去に係る出来事が仲々記憶に留まらなくなってきたということは、人並みに加齢が進んでいるという証しであろう。その所為か、このところ、夢の中で昔の世界に遊ぶことが多くなってきた。昨夜、正確には今早朝(2006 年 5 月 18 日)のことであるが、渡邊寧先生をお訪ねし、おしゃべりを楽しむことが出来た。全く思いも掛けない出来事であり、我ながら楽しい再会であったので、文字にして記録媒体に残しておくことにした。しかし、夢で見たことというのは、所詮、記憶の断片を直感もしくは六感という糊で繋ぐことによって織りなしたフィクションに過ぎない。直感や六感がいつも正しいという保証はないので、この“夢物語”にも独断と偏見が紛れ込んでいる恐れがあることをお断りしておく。

  私は昭和29年(1954 年)東北大学に進学したのであるが、思うところあって学業の方はずぼらを決め込んでいた。充実した時間は送っていたものの2年間遊び呆けてしまった私は、教養部から工学部に進学したとき、急に勉学に目覚め、3年生の身ながら、西澤潤一先生の研究室に入れて戴いた。東北大学付属電気通信研究所「通信用電子物理研究部門」がその研究室の表札で、私はその“看板”に惹かれて恐る恐るドアを叩いたのであった。この研究室の実質的責任者は新進気鋭の西澤助教授であったが、その上に座して居られたのが渡邊寧教授であった。渡邊先生は、当時としても大変珍しいことに、電気工学科の2講座と上記付置研の2研究部門の担当教授であった。丁度、電気通信研究所所長から工学部長に替わられたばかりであり、文部省、電気試験所、電気学会など学外でも沢山の要職に就いておられたので、4つの研究室は八田吉典(放電工学)、菊地正(自動制御工学)、本田波雄(情報理論)、西澤潤一(半導体電子工学)の四助教授がそれぞれ実質的に取り仕切っているように学生の目には見えていたのである。渡邊先生は、昭和 35 年(1960 年)東北大学を定年退職し、静岡大学の学長になられた。こうして、私は渡邊寧先生の最後から2番目の、そして西澤潤一先生の最初から2番目の学生という名誉を得ることになった。余計なことだが、私には昔から一番より二番が好きという変な好みがある。出会った多くの一番さんは、いわゆる“頑張屋さん”で、得てしてユトリの少ない御仁が多かったためだが、ひょっとすると中学校で、卒業時に1番なら「学校長賞」、2番なら「市長賞」といわれ、2番が良いなぁと考えてそれを目標にしたことがホントの源泉かも知れない。ご褒美が前者は辞書だったのに、後者は置き時計だったことも魅力であった。
ともあれ、西澤先生が将来東北大学の総長になられるなど、またその後更に2つの大学で学長職をこなされながら、私にとっては仕事の上で関係のある、原子力産業会議の会長職にまでお就きになられることなど、全く予想も出来ないことであった。
一方、渡邊先生については、小学校に5歳で飛びつき入学を許された、生まれついての秀才であり、還暦過ぎたお歳になられても朝4時から勉強をされておられる、などと聞かされていたので、全くもって“神様”のような存在であった。陸士(陸軍士官学校)を希望したが、身長が足りなくて望みが叶わなかったこと、大学(東京大学の電気工学科)での成績はまるで駄目だったこと(ご本人の弁)、2度のご結婚が共に“恋愛結婚”だったこと、8人ものお子様を残されたこと、仙台でご自宅が空襲に遭われたときの“奮闘記”、などから、人間としても魅力溢れる先生だと知って一層敬愛の情を深くしたのは、ずっと後のことである。

 * * * * *

K(加藤和明):お久しゅうございます。天国でも晩酌を楽しんで居られるのですか[先生はお亡くなりになる直前、お嬢様の導きでカトリック教徒と成られた]?
W(渡邊先生):そうじゃが、君は誰だったかね?
K:ご記憶にないのもムリナキコトと思います。先生の研究室の一つ、西澤先生のところで卒業研究をさせて戴いた、先生にとっては東北大学で最後から2番目の学生で、加藤和明と申します。当時は教授といえば学生にとってどの先生も雲の上の存在で、遠くから仰ぎ見るだけでしたが、先生はそのまた上にお出ででしたし、何しろお忙しかったですから、直接サシでお会いして、親しくご指導戴くなどという機会は殆ど得られませんでした。
W:それは済まなかったね。そうだ、思い出したよ。片平丁(当時東北大学の主体キャンパス)で物理学会があったとき、江崎さんのダイオードの発表を教えに来てくれた学生だね。
K:そうです、そうです(感激に咽ぶ)。西澤先生にご報告したら「すぐに渡邊先生のところへ伺ってお話するように」いわれ、秘書の長谷川さんに恐る恐る取り次いで戴いたのでした。先生が大変熱心に耳を傾けてお聞き下さり、興奮しておられたのを今でもハッキリ覚えております。
:学科のコロキウムで物理学科の中林睦夫教授(理論物理)に講演をお願いしたとき、超電荷のことを質問したので、隣に居た小池君(勇二郎教授:電子物理学)が、生意気な学生が居るとばかりに目をむいたことがあったが、アレも君だったね。
K:はい、そうです。よくも生意気にあんな質問が出来たものだと、今思うと、顔から汗が噴き出ます。話は戻りますが、江崎さんは当時神戸工業という会社(今の富士通テン)から東京通信工業(今のソニー)に移ったばかりだったかと思います。先生は江崎さんのお仕事を高く評価されて朝日賞に推薦されました。ノーベル賞を授けられた後、我が日本政府は彼に文化勲章をも授けたわけですが、私は先生の偉さに痺れたものです。
W:それで君は今まで何をやってきたのかね?
K:卒業後、先生のお生まれになられた日立のそばにある東海村に行きました。原研(現在の日本原子力開発機構)です。13年半そこで働いた後、筑波に出来たばかりの高エネルギー物理学研究所(現在の高エネルギー加速器研究機構)に移り、24年おりました。さらに茨城県立医療大学という新設の小さな大学で10年ほど教師をしました。今は“放射線安全科学”のコンサルタントとして、時間の切り売り生活をしております。筑波山の中腹に住み、日頃は霞を食べ、たまに下界に降りて人を食うのを楽しんでおります。
茨城県人になりましたので、先生が忘年会のときなどに唄っていらした、大洗の磯節を良く耳にしますが、あれは難しくてとても歌えません。李香蘭の「夜来香」や渡邊はま子の「支那の夜」を聞くといつも先生のことを想い起こします。
W:で、仙台で学んだこと、役立ったかね?
K:それはもう充分に。兵隊・下士官ではなく将校になるための教育を授けて戴いたお陰と感謝しております。先生に “諸現象の含む原理の把握から総合的な判断力を深め、さらに他分野への洞察力を培うことも研究の進め方の一つの型である”と教えて戴いたのが忘れられません。今、日本では、“木を見る名人”はほどほど見掛けるけれど、“森を見る名人”が極めて少なくなっています。このような現状を見るとき、渡邊先生のこのようなご見識に、改めて感銘を覚える次第です。

W:あれは、色々のことに興味を持ってしまった自分自身への言い訳みたいなものじゃよ。
K:先生は東北大学を定年退官された後、静岡大学の学長にお就きになりました。そしてその任にあるにも拘わらず、東北大学は先生を東北大学の学長(候補)に選んでしまいましたね。
W:そんなこともあったなぁ。
:選んだ方は、大学としてはコチラの格式が上なんだから、来て下さるだろうと期待したんだろうと思います。でも、先生はお受けにならなかった。
:失礼な話だよ。あのときは本当に参ったね。
K:西澤先生が、周りからいろいろ責め立てられて苦しいお立場だったようです。
W:そう、彼にも苦労を掛けた。
K:私は、西澤先生にとって不肖の弟子となってしまい、半導体屋にはならずに放射線の安全に係る仕事をしてきました。放射線防護研究会というのを20年以上前からやっているのですが、昨年(2005 年)夏、科学技術事務次官、原研理事長、等歴任された伊原義徳先生をお招きして、原子力の黎明期についてお話を伺うことができたのですが、そのとき最初の原子力予算に「ゲルマニウム研究」の項目があることを知り吃驚しました。「渡邊・西澤研究室」は実質「半導体研究室」で、西澤先生が狭い研究室を出来るだけ有効に使おうと作られた中二階に「ゲルマニウム研究」と書かれた報告書がうず高く積まれていたことを思い出しました。
W:あの頃は電気試験所(後の電子技術総合研究所、今の産総研)の部長をも兼任していたからね。日本の将来のため、半導体の研究を早く始めなければならないと、使命感に燃えて居たね。
K:大学では、みんな、先生は文部省など国から予算を貰ってくる名人だと言っていましたが、これは、一高(旧制)のとき寮のルームメイトが岸信介(後の首相)だったことと関係ありますか?
W:そういうのを下司の勘ぐりというのだよ! でも、後年、弐度目の結婚式で媒酌人を頼んだりした位だから終生仲良しではあったよ。
「ゲルマニウム研究」は、文部省で科学教育局長を併任でやっておられた茅誠司さん(後に東大理学部長から総長)が半導体研究の重要性を理解し応援して呉れたんだよ。総額3億円の原子力予算に、ウラン研究と肩を並べて同額の 1,500 万円を付けて戴いた。有難かったね。
K:最初の原子力予算は 325M\ でしたが、これは“ウラン235”に因んだものと、あとでどなたかから教えられました。使い残しが大分出たとも漏れ聞いていましたので、その後の日本の半導体産業の発展を目にして、「偉い人は偉いことをするものだ」との思いを深くしました。
 でも、先生は戴いた研究費の殆どを余所の先生方に回して、ご自分では余りお使いにならなかったとか。ともあれ、我ながら品格を欠いた恥ずかしい質問でした。でも夢の中でこのように親しくお話しできるとなるとお聞きしてみたくなるのです。質問を換えます。戦時中、先生は島田(静岡県)にあった海軍技術研究所の実験所で所長さんでした[中将待遇]。
W:ドイツに留学中親しくなった伊藤庸二君(海軍技術将校)に口説かれてね。
K:伊藤さんといえば、実の弟さん(中島茂さん)がお作りになられたアロカという会社が、仕事の上で関係が深く、ずっとお世話になっています。西澤研でご一緒だった伊藤大佐のご長男(1学年上の伊藤治昌さん)にも、ときどき寿司屋に連れて行って戴くなど、大変お世話になりました。
 島田には朝永振一郎先生(後に東京教育大学長、学術会議会長など歴任;ノーベル物理学賞受賞者)や小谷正雄先生(後に東大理学部長や東京理科大学学長など)といった超一級の頭脳を集められました。
W:優れた物理学者を集めたというので、物理学界の大御所でいらした長岡先生(原子模型で有名な半太郎先生;原子力界で有名な嵯峨根遼吉先生の御尊父)に嫌みっぽく冷やかされたものだ。菊池正士さん(後に東大原子核研究所長、原研理事長)や萩原雄祐さん(後に東大天文台長)や小田稔さん(同じく東大宇宙線研究所長や理研理事長)なども居ったんだよ。今でいうレーダ、当時は電探と呼んでいたが、そんなことを研究していたのだよ。
撃ち落とした敵機を調べてみるとレーダが積んであって、アンテナには YAGI と書かれていた。ワシが東北大学に着任したとき八木秀次先生が教授で居られた。その八木先生の名前だった。当時、これが日本人の発明だと気が付いた人は少なかった。今では八木・宇田アンテナと呼ばれている。また、今電子レンジに使われているマグネトロンも岡部金治郎君が仙台で発明したものである(磁電管)。八木先生は、大阪大学が創設されたとき理学部長に招かれ、岡部先生を物理学科の教授に連れて行かれたが、日本のノーベル賞受賞者第1号となった湯川秀樹先生も、八木先生がこの新設理学部に迎えたのだから、偉いものだね。朝永・小谷の両先生は戦後、島田での研究を「極超短波磁電管の研究」に纏められて「みすず書房」から出版され、立派な賞(学士院賞)を受けられたよ。
K:島田での研究成果は戦後、日本無線や日本電子などの会社に受け継がれていきました。
W:そう、超音波発信の技術は魚群探知機を生み出したりしたね。
K:ところで、人間というのは、その歳になってみなければ分からないということもあり、ある程度生きてみてヤット分かることもあります。アタマをちゃんと使う生活をしていれば睡眠時間は短くてもよい、などというのはその一例です。先生は朝型で、還暦をお迎えに成られたあとでも、朝の4時頃から猛烈勉強されておられたとお聞きし、別の人種かと学生時代に思っていました。
W:岸君(元首相)が追悼文に書いているように、一高生の頃は、酒はまるっきり駄目だった。酒を飲む喜びを知り晩酌を楽しむようになって朝型になったのだよ。
K:先生が奥様を亡くされたあと、再度恋を成就されて若い奥様を迎えられたことも、この歳になってみると微笑ましく、また羨ましく思います。このとき“岸閣下”が仲人を務められたのですね。
W:個人情報保護法というのが出来たそうだから、コメントはナシだ。
K:申し訳ありません。private な領域に踏み込みすぎてしまいました。話題を戻します。私は、西澤先生の期待に反してか即してか、半導体屋にならず放射線屋に成ってしまいました。昭和 33 年(1958 年)に原研(日本原子力研究所)に就職したのですが、その直後に渡邊先生が国の原子力委員会専門委員になられたり、東北大学原子理工学委員会の委員に就かれて原子核工学科の設置にご尽力下さいましたし、またずっと後年私が文部省の学術審議会原子力専門部会の専門委員を拝命したとき委員長として現れたのが西澤先生だったりしましたので、両先生のお弟子としてそんなに道を踏み外したことには成らなかったのではないかと勝手に思ったりしているのです。
W:カリフォルニア大学のバークレイ放射線研究所にいっていた嵯峨根(遼吉)
さん(東大物理学科教授;長岡半太郎先生の5男)が帰国されるというので、仙台に来て貰い講演して貰ったのだが、そのインパクトは強烈で、東北大学でも、自分を含め沢山の人間が影響を受けたのだよ。
K:私もその一人だったのです。理由は他にもありましたが、あの講演に刺激されたことは 間違いありません。感激して原研へ試験受けに行ったのですから。
W:駒形(作次)君(電気試験所長から工業技術院長を経て原研理事長)が面接したんだろう。
K:そうです。面接の時は副理事長でしたが、入所時には理事長になっておられました。駒形さんが先生と大変親しいご関係にあったことは、そのとき知りませんでしたが、先生を大変に尊敬して居られることは実感しました。先生が偉いと弟子というのはその恩恵に与ることがある、ということを今になって実感し、改めて身の幸せを感じます。40数倍という競争率でしたが、何とか合格できたのは先生のお蔭だったのです。
原研では放射線の計量についての研究を始めたのですが、その際、先生が昭和25年(1950 年)に書かれ、八木先生の還暦祝いに捧げられた「空間電荷電導論」が大変に有用でした。放射線の計量も、感度や精度の点で、電気を介して行うに如かないので、関係する文献を読みあさっていたのですが、苦労して探し出して読んだドイツ語の論文の幾つかが、既に先生のこのご本に要領よく書き込まれていることを後になって知り、吃驚したものです。
W:何事も基本的なことはキチンと勉強しなければならないのです。役に立ったとは嬉しいね。
K:先生の授業で「半導体工学」というのがありましたが、当時ご執筆中の「半導体とトランシスタ」(後にオーム社から2分冊にして出版され、電気学会から文献賞受賞)のゲラ刷りを手に講義して下さいました。内容は殆ど半導体と半導体素子の物理という感じでした。
W:わしは「トランシスタ」と訳したが「トランジスタ」が定着してしまったよ。
K:私も放射線の単位 kerma を「ケルマ」と訳したのですが「カーマ」となってしまいました。
W:ところで、最近は、学生の学力低下がひどくなっているらしいが。
K:そのことになりますと、先生のご姻戚に当たられる、野邑雄吉教授のことを思い出さずに居られません(ご長男の夫人が野邑先生のご長女)。野邑先生にはルジャンドルとかベッセル、ガンマ関数など濃密な講義で随分しごかれました。このような特殊関数は、卒業後、年に1,2度しか必要となる場面に出くわしませんでしたが、私の拙い研究にも随分役に立ちました。ところが、今、学生や若い研究者にこのような特殊関数を使って話をしても殆ど通じません。学力低下は実は学生だけでなく大学の教員や一部大学の学長にまで及んでいる感じで、日本全体が沈没しかけています。
W:君たちがしっかりしないからだよ。西澤君にもしっかり頼むと伝えてくれ。
K:大分前ですが、西澤先生にも同じような感想を申し上げたら「君もそんなことを言うような歳になったのか」と顔を見つめられてしまいました。そういえば、私が学生の頃、西澤先生は「論文を書いても渡邊先生が仲々投稿のお許しを下さらない」といって嘆いて居られました。厳しいご指導をされていたのですね。それから、西澤先生は助教授時代、全ての論文を先生との共著になさっていました。一昔前なら当たり前と思われる、このような美徳も、最近では滅多に見られなくなってきたように思われます。
W:下界のことは余り知らない方が良いようじゃな。
K:夢の中でお目に掛かっているせいか、関連して色々のことが思い起こされてきます。野邑先生といえば、高野先生(知彦教授)の電磁気学単位系についての研究発表に、大変厳しい質問とコメントをされたことを思い出します。学問を究めることの厳しさを教わりました。
また、高野先生といえば、宮城学院女子大学で助教授をしておられた妹さんが、リサイタルで、W.カンディフさん(同大音楽科教授)と連弾でモーツアルトの「四手のためのピアノソナタ」 を演奏されたときのハプニングも懐かしい仙台時代の想い出です。
W:青春の想い出は良いものだ。
K:カラヤンがベルリンフィルを引き連れて2度目の来日をされたとき、仙台でも演奏するというので、 2.5k\という大金を叩いて切符を買い、聴きに行った(1957年11月21日仙台公会堂)のですが、カラヤン急病で現れず、代わりに棒を振ったのは副指揮者のヴィルヘルム・シュヒターでした。
 「良い音楽というものはメシを食わずとも聴きに行くものだ」とドイツ語の先生に言われ、3食付寮費1月分に相当する切符を買ったのでした。
W:確か、急病のお詫びにプログラムが無料で配られたよね。
K:ええ、あの晩のモルダウは良かったです。
大分長いことお邪魔をしてしまいました。そろそろお暇しますが、最後に、最近心を痛めていることを披露させて下さい。いま日本では社会の階層に格差が広がりつつあると言われています。そして、金持ちの親に恵まれないと上質の教育を受けにくくなっているような気がしています。そんなところに、最近、先生が(旧制)一高時代、三菱から奨学金を受けて居られたことを知り、何故かとても感激しました。
天国からこれからも下界の私たちを暖かく見守っていて下さい。
W:神様に“日本のこと宜しく”とお願いしておくよ。
<完>

本稿は、本誌43号(1996年)に掲載された『天国に渡邊寧先生を訪ねる』(41-49頁)を、事務局員(当時)のお一人(KHさん)の強いお勧めに従い、一部に加筆修正を施して、再掲載するものです。字体の調整等にお助け戴いたKHさんにお礼を申し上げます。
最後の方に出てくる、マエストロ・カラヤンの“代振り”を、当初サヴァリッシュと書きましたが、それは“思い込みによって刷り込まれていた間違い”でした。サバリッシュが2012年02月22日に亡くなったとき新聞で来日の記録を読み、自分の記憶違いに気が付きました。正しくは、当時無名に近かったヴイルヘルム・シュヒターでした。音楽通の住田健二先輩(阪大名誉教授/元原子力安全委員)によると、マエストロの風邪は“お弟子さんの売り込み”のためだったのではないかという噂が、当時業界の一部に、流れていたそうです。実際、シュヒターはその2年後(1959年)にNHK交響楽団の指揮者に迎えられています。

                                              工学部長室での渡邊先生(昭和32年)


                                                               渡邊先生(左)
                                                      

「エネルギーレビュー」誌投稿記事 by 加藤2017/06/14 16:41

加藤兄から[エネルギーレビュー」誌に投稿した記事の別刷りPDFファイルが送られてきました.
よろしかったらお読みいただきたいとのことですので,掲載いたしました.
本サイトには最初のページの画像を表示してあります.フルテキストはGドライブに置いてありますので表示されているURLにアクセスしてご覧下さい.




女川原発の見学記 by 内山2017/06/13 13:11

                               女川原発の見学記

加藤和明さんから燦燦会メンバーに「女川原発の見学」のお誘いがあり、参加を願い出た。
仕事上、種々の工場の自動制御システムの設計に関わり、その中に、「緊急シャットダウン・システム」も含まれていたが、原発ではどうしているのか関心があった。(出発前、インターネットで調べて、その内容は大体把握できたが、現場を見たいという思いは更に強くなった)
(1)原発と被災地の見学
5月17日は女川原発見学、18日は岩沼市の被災跡地と相原邸の見学という内容であった。
・原発では地震を感知したら、①制御棒をすべて原子炉内に差し込み、原子炉の核分裂反応を止め
る⇒②炉心を冷却し続け、温度を下げ、冷温停止状態にする。という操作を行う。この②の段階で
は、冷却水循環ポンプを駆動する電力が必要で、外部からの電力が途絶えても、非常用ディーゼル発電機から電力を得る仕組みになっている。
・2011年3月11日14時46分に発生した大地震と津波が東北地方を襲い、東京電力の福島第
1原発(原発4基)では冷却水循環ポンプ用の非常用ディーゼル発電機が起動したが、津波の浸水で止り、冷却機能を失い、水素爆発を起こし、放射能汚染を引き起こした。周辺に多大な損害を与え、炉心はメルトダウンし、廃炉に多くの年月と、多くの予算を注ぎ込む事になっている。
・一方、東北電力の女川原発では非常用ディーゼル発電機が正常に起動し、冷却系統が正常に働き、原子炉を冷温停止させた。今回の見学で知った事だが、驚いた事に、女川原発では、法律で禁止されていたにも関わらず、避難してきた町民364人を約3か月間、体育館に受け入れ、避難場所の役割を果たしていた。この件で、女川原発が「法律違反の咎め」を受けていないのは救いであろう。
・福島第1原発では、津波の高さを5.7mと予測し、敷地の高さを10mにした。一方、女川原発
では津波の高さを9.1mと予測し、敷地の高さを14.8mにした。
・福島第1原発では、襲った津波の高さは予想を超える13mであったので、津波で浸水した。また、計装用電源もダウンしたので、炉内の状況の把握ができず、盲目状態に陥った。
・なぜ、東京電力は津波の高さを低く予測したのか?歴代の社長が文系で独占されている会社では、採算や政府への説明のし易さが優先され、安全に対する配慮が不足した可能性があると推定している。また、福島は東京電力の地元でないし、地元出身者が建設に当たっていない事も安全に対する配慮の不足になったか?
・東北電力は女川原発の建設に当たり、過去に、この地区を襲った大津波を幾つも調べ、過去最大と言われる、平安時代初期の「貞観津波」に耐える敷地の高さにした。原発では海水を間接的な冷却水として利用するし、建設時の機資材搬入を考慮すれば、敷地の高さは低い方が良いが、津波による浸水を避ける事を優先して14.8mの高さに決めたので、津波の高さより敷地が高く、浸水を免れた。冷却用の海水の取り組み口は津波の引き浪時にも海水が確保される構造にしていた事にも感心した。
・見学させて頂いた時、更に、安全性を高めるため、①14.8mの敷地の上に更に9mの高さの防潮堤を建設する、②建屋や配管系統の耐震性の向上対策を行う、③非常用ディーゼル発電機を山の上に増設する等の工事が行われていた。
・地震後、IAEA(国際原子力機関)は女川原発の調査を行い、「震源からの距離、地震動の大きさ、など厳しい状況下にあって、驚くほど損傷を受けていない。」と評価し、世界原子力発電事業者協会(WANO)は「原子力功労者賞」を授与している。
・平安時代前期(西暦869年・貞観11年)に発生した貞観地震は菅原道真が編集に関わった史書「日本三代実録」に記録されている。小倉百人一首に「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 浪こさじとは」という歌がある。清少納言の父・清原元輔(908~990)の歌であり、平安時代に東北で発生した貞観地震の記憶が読み込まれている。「末の松山」は海から2キロメートル程、内陸に現存しており、3月11日の津波でも、末の松山を浪は越えなかったらしい。
・視察者が我が国の放射線専門家の第一人者である為か、東北電力がバスをチャーターし、仙台駅⇒女川原発⇒秋保温泉の送迎をしてくださり、原子力副部長他1名がバス内での説明に当たり、女川原発では所長、副所長が説明に当たられた。東北電力の子会社の社長を歴任された相原さんの影響も大きいと感じた。
(2)日本の原子力安全委員会は2012年(事故の翌年)に廃止⇒原子力規制委員会へ移行。
・1981年~1982年に米国の研究機関が福島第一原発と同型炉について、「全電源が喪失した時のシミュレーション」を実施し、アメリカ原子力委員会に提出した。これを受けて、アメリカ原子力委員会は早速、これを、安全規則に反映している。
・この情報は当時の「日本原子力安全委員会(NSC)」にも送られたが、「日本では送電線などは早期に復旧する」として、全電源喪失を想定に入れず、1990年に、NSCが「原発の安全設計指針」を決めた時、「指針27」で、「長期間にわたる全部の交流電源喪失は、送電線の復旧または非常用交流電源設備の復旧が期待できるので、考慮する必要はない」としている。これは、「NSCの危機分析能力の欠如」を示すものではないかと思う。現に、「福島第1原発」では両方の電源を失い、短時間で復旧できず、大惨事を引き起こしている。
・災害発生時に「総理、原発は大丈夫なんです。原子炉は構造上爆発しません」と述べた当時のNSC委員長・班目春樹氏は責任を追及されていない。水素爆発の予測もできない方が委員長であった「日本原子力安全委員会」は翌年、責任不明のまま解散し、「原子力規制委員会」へと看板を書き換えた。今回の事故の責任は「天災」で済まされてしまうのか?
(3)原子力リサイクルの仕組みが完成しない。
・今回地震と津波を受けた原子力発電所は5か所であるが、4か所(福島第2原発、女川原発、東通原発、東海第2原発)は安全に冷温停止状態になった。いずれも、敷地内に海水が侵入していない原発である。つまり、災害に対応する処置をしていた原発は無事なのである。
・しかし、原子力を利用する場合、「使用済み燃料の処理をどうするのか?」という問題がすっきり解決していない。原子燃料の「再処理工場」は青森県の六ケ所村に建設されているが、度重なるトラブル発生で、竣工時期を23回も延期している。原子力をエネルギー源として利用する仕組みができているとは言えない。
原子力規制委員会のメンバーも入れ替えが必要だろう。原子力の専門家だけで構成されている様だが、常識人をメンバーに入れる必要がある。女川建設を指揮した方は、原子力の専門家ではない。
(4)岩沼市での被災地並びに相原邸見学
岩沼駅に到着したら、岩沼市役所のバスが迎えに来ており、説明者は「被災当時の市長さん」という贅沢なアレンジがされていた。視察者一行が我が国の放射線専門家の第一人者である事を岩沼市が判断して、このようなアレンジになったという事である。
相原邸は岩沼市の建築物で最古の歴史を誇る屋敷であるという。つまりは、岩沼市にある日本三大稲荷の一つである「竹駒稲荷」よりも、古く、1200年の歴史があるという。相原孝志さんから頂いた名刺の肩書は「岡二ノ倉 58代当主」である。
相原邸は土盛りをした小高い敷地に建てられた高床式の邸宅で、相原さんが命からがら、自宅の屋敷林にたどり着いた時は、高床の邸宅の床下まで水が来ていたと言う。詳細は、燦燦会のブログに寄せられている「本人の被災記録」(2011年5月23日付の「大津波からの必死の脱出」)に詳述されているので、そちらに譲るとして、九死に一生を得られた物凄い体験談であった。
相原邸では大人数が押しかけたにも関わらず、奥様、お嬢さまを動員され、万全の用意を整えて迎え入れてくださった。東北電力側のアレンジと併せて、心から感謝申し上げたい。




地方消滅は本当か (子供を作らなくなった日本民族) by 相原2015/03/17 21:38

地方消滅は本当か
     (子供を作らなくなった日本民族)
                              
                              相 原 孝 志

■消滅可能性都市のこと

 多くの市町村が「消滅可能性都市」となるという、本当か。2040年には全国1799の都市の内、896の市区町村が「消滅可能性都市」となるというのだ。それは人口減少によるものであり、20~39歳の若い女性の減少と大都市圏(特に東京圏)への若者の流出が原因であるという。地方都市の約半数が消滅する可能性があるというのだが、これは只事ではない。

しかも人口減少がその一因である以上、地方消滅対策は人口問題として解決できることではなくなってしまった。何故ならわが国の人口問題は短期間に解決できることではなく、人口減少は相当長期間続いていくこととなるからです。


■わが国の人口問題

 出生率約1.4で子供を作ることを忘れたわが国は、今や総人口5000万人を目指して国力を低下させていく。わが国の人口は2008年の1億2800万人をピークに人口減少過程となっており、今世紀半ばには1億人を切り、今世紀末の2100年には5000万人と現在の約40%まで減少する予想となっている。しかもこれまでの総人口の減少速度は高齢者の高寿命化によって緩和されてきたが、これからは加速されていくこととなる。

人口を維持できる出生率は2.07だが2013年の出生率は1.43と低位にあり、わが国の人口問題は簡単には解決できない問題となってしまっている。これから少子化対策が実行され出生率が高まったとしても現実に人口が増えるには時間がかかり、わが国の人口問題が解決されるのは何時のこととなるのか分からない。

またわが国の人口問題として注目すべきは、最近の日本人は子供を作らない風潮が強くなっているようで、親自身が自分を大事にしたい、人生を楽しみたい、女性は自分も仕事をしたいなどとの思いが強くなっており、未婚者が多くなっていることがこのことを示しているともいえるようだ。これからの少子化対策は中々難しく人口増加は並大抵のことではない。子供を産まない民族となってしまえば、残念だが人口回復は不可能なのではないだろうか。


■地方消滅は本当か

 地方消滅とは地方が消えてしまうことなのか、それとも自治体が無くなるということなのか。地方消滅とは何かをはっきりさせておかなければならない。若い女性が減少し、あるいは人口が大都市部へ流出することで、ある地方が存在しなくなるということなのだろうか。人口が減っても直ちにゼロになってしまうのではなく、何らの対策もなければ消滅してしまう可能性があるということではないのだろうか。地方が消えてしまう前に、行政機構が機能低下を起こす過程があるはずで、その中で地域維持のための努力がされるはずである。そして住民は闇雲に大都市へ出ていくのではなく、地元の住環境が充足されていれば住みつづけ地方は消滅しないはずである。社会保障機能や雇用などが確保されていれば、人々は基本的にその街を出ていくことにはならない。人口が減少し、住環境が低下していく過程で、行政と住民とが状況悪化改善に努力すれば地方消滅を防げるのではないかと思う。簡単に「地方消滅」などといってほしくないのである。地方消滅防止対策として、実態に応じて改革、改善、工夫などをすべきである。これらの諸対策によって若い女性の減少と人口流出をある程度防げることとなれば、地方消滅にはならないはずである。

中でも地元出身者の大都市流出防止対策は真剣に考えなければならない課題である。地方が折角育てた若者が学業終了とともに大都市へ就職してしまうことは余りにも残念であり、地元定着対策として「地方の雇用の場の確保」を是非考えるべきである。貧しい地方が育てた子供たちが裕福な東京の発展のために働くというシステムは是正してもらわなければならない。そしてこのことは別の問題も派生することとなる。現在の核家族化傾向を益々増長し、世代間の知識や技能の伝承が行われず、また親の高齢化に伴う介護問題のこともあり、このことの指摘は余り聞こえませんが大きな社会問題となっているのです。


■改めて地域興しを考えるべきではないか

 地方消滅は一つの警告として聞き、これから考えるべきは地域興しなどの対策であると思う。対策のひとつは地域興しであり、その二つ目は酷すぎる産業空洞化対策だと思う。わが国工場の海外流出は余りにも酷く工場が国内立地していれば、国内雇用増加となり、わが国GDP上昇に寄与し、税収増になるものが、外国の発展に貢献しているのである。そして対策の三つ目は、日本企業の経営者にも自前のことだけでなく、日本の将来について目を向ける度量を求めたいということです。

  以上書いてみましたが、子供作りに貢献できない我々、晩酌の味を不味くしてしまいますかね。




青色LEDノーベル物理学賞 「赤色」でなく「青色」であったワケ by 竹内 薫2014/11/24 15:47

今日図書館でたまたま手にした中央公論12月号に上記タイトルで今回の物理学賞受賞の成り行きを考察した記事が掲載されていた. 発光ダイオードの物理ということであれば,この分野で多大の先駆的業績のあるホロニアック教授,西沢先生,そいて赤崎教授の受賞が妥当であろう. しかし青色LEDに限定したことで,ホロニアック教授,西沢先生は受賞の対象外になってしまった.そのへんの事情を述べ,今回のノーベル賞は考えさせらたと述懐している.また,ノーベル賞受賞者のみに世間の耳目が過剰に集まることへの危険性も指摘している.

西沢先生が受賞者でなかったことで弟子の加藤君が問題視していましたが,われわれも何故と不思議に思っていました. この記事によりノーベル賞選考の様子がそんなことだろうとわかったような気がします. 3方のノーベル賞受賞は素直に喜ぶべきですが,過度に受賞者のみが注目される風潮は改めるべきと思います.