アンデス文明小見聞記 (相原)2009/06/11 21:30

 

 燦々会の皆様方、薫風香るこの頃、ますますご清栄のことお慶び申し上げます。

 先月私の不思議の国 ベルーへ行ってまいりました。専門家と共にアンデス文明の一部を堪能いたしてきました。
なお、ナスカの地上絵はセスナ機で空中から見るのですが、その飛行場で図らずも曽根ご夫妻とばったり会ったのです。この広い世界の中で、その一瞬に邂逅する不思議そんなこともあるのですね。世界は広くまた狭いのだと思い知ったのでした。
 志村兄には、「北欧旅行」のこと大変結構でした。ありがとうございました。

「アンデス文明見聞記」拙文お暇な時にでもお読みください。


 アンデス文明小見聞記
                                          
◆はじめに
 成田を発ちペルーの首都リマ到着まで20時間余、かなりの長旅であった。日付変更線と赤道を越え、海と国を越え、時を越えてたどり着いた私の不思議の国ペルー、どんな人々が住み、どんな歴史を見せてくれるのか、そして長く持ち続けてきた好奇の心を満たしてくれるのだろうか。
 ペルーは大きく四つの地域に分けられるだろう。2000kmと南北に長い国土は、アンデス山脈を中心とした6000m級山岳地帯、その西側の高山地帯と太平洋沿岸部そしてアンデスの東側アマゾン地帯とである。この度訪れた標高3400mのクスコは2400mのマチュピチュと同じ高山地帯に位置し、薄い空気と強い日射が特徴だが、リマとナスカは太平洋沿岸地帯に位置しナスカは砂漠地帯である。ナスカは太平洋に近いのだが、沿岸を低温のフンボルト海流が流れているため降雨が少なく砂漠化している。このように高山地帯と沿岸部との両地域の自然環境は地理的条件も気象条件も大きく異なり、それぞれの文化と歴史に影響を与えるだろうし、そんな中でインカ帝国の統一も進められたのであろう。

◆クスコとマチュピチュ
 いよいよアンデス文明の遺跡巡りが始まる。その最初はインカ帝国の首都であったクスコである。高山地帯にひらかれたこの町は、太陽に近く強い陽射しと清涼な大気、そして歴史的遺産の多い街であった。「太陽の神殿(コリカンチャ)」を中心としたインカ特有の黒色の安山岩石組みとレンガ色屋根に統一された清楚な街並みに、また看板や広告塔もなくオレンジ色一色の夜景などに、ここに住む人々の心情が映されているようにも感ずる。
 しかしこの国の歴史には、16世紀インカ帝国がスペインによって滅ぼされ植民地となった悲しい歴史があった。安山岩石組みでできた太陽の神殿の基礎の上に建つスペインが造ったアーチ式教会は、構造物としても色彩的にも二つの文明をモザイク化したものとなって、不調和中に調和を強いられる感がある。しかし鉄器を使わず多角形の石組みを摺り合せる驚く程の石工技術を目に出来ることや、透明感のある空、強い日差しに映える周辺の鮮やかな芝生の緑やそしてレンガ色屋根の拡がりが、街全体を落ち着かせてくれる救いがあった。
 クスコを発って車と列車を乗り継いで、マチュピチュに向かう。いよいよあの空中都市マチュピチュを目の前にすることとなる。アマゾンの際に立つアンデスの山々を背景に、そして雨季の終わりらしく濁流のアマゾン川源流に抉られて空中にそそり立つマチュピチュ、この旅の大きな目的の一つである。青い空が近く感ぜられる。緑一色の山々を背景にした石造り遺跡、写真などで何度も見たワイナピチュ(若い峰)と空中に浮かぶ遺跡とが目の前に広がっていく、凄い。
 誰がこの高地に何のために都を造ったのだろうか。遺跡全体を一巡し、全景を眺めるポイントを幾度か変え、この三次元の空間に浮かぶ謎の遺跡を心にしかと焼き付けることが出来た。しかし、この高山地帯での石組建造物とアンデネス(段々畑)の誕生、そしてこれだけの難工事を乗越えて造り上げた目的とは何だったのか、それとも太陽の神に何を祈ろうとしたのだろうかと益々疑問が深まっていく。この「空中都市」はある時、人々が黄金とともにこの地を去り「失われた都市」となったのだと聞けば尚更のことである。かなりの時間を過ごしながら、今後この遺跡の謎がどのように解明されていくのだろうかと思ってしまう。謎解きは程々にして、何時までも謎が残るのも良いのではあるまいかと思いながら、名残は尽きないものの多分二度と会うことはなかろうこの地に別れの礼拝を申し上げたのだった。

◆ナスカの地上絵
 ペルー太平洋沿岸にあるナスカ台地は、首都リマの南方 450km 南緯14度の赤道近く、ほぼ南北15×東西20kmの範囲に地上絵が描かれている。この地上絵は、誰が何のために描いたのかという疑問が以前からあった。ただ人に見せることを目的にしたものではなさそうだが、今でも宇宙人が描いたのではないかという説は依然として健在だし、農耕のための太陽や星座と関連したこよみ説もある。現在最も有力なのは、豊穣祈願のためであるとの説だという。ただし疑問も残る。それは当時ナスカの地は農耕に適した所であったのかということである。太陽には恵まれてはいるものの、水が十分確保出来たのであろうか、現在のように砂漠ではなかったのかということである。ナスカ台地の周りを流れる川周辺という限られた地域での農耕だけのための豊作祈願なのだろうか。ならばこれだけ大掛かりにする必要はなかろうし、同じような地上絵が他にもあって然るべきではないかと思ってしまう。
 研究者は、地上絵の全体分布図無しには研究は進められないとして、航空機や人工衛星による写真の解析と現地調査とによって全体図を完成させようとしている。地上絵の対象である動物の内三割は鳥だが、鯱、鯨、魚、狐、猿、蜘蛛、とかげの絵もあり、他に幾何学模様や直線なども多い。これらの正確な全体図を作り、その上で対象絵柄の選定の意味や位置関係、方向性などから、文字を持たぬインカ人が地上絵を描くことで果たそうとした彼等の思いを解き明かしたいとしているのである。インカ人は文字を持たなかったのではなく、持つ必要がなかったのではないか、文字に代わる別な手段を持っていたのではないかと研究者達は考えているのかもしれない。

◆おわりに
 アンデス山脈を背にした地理条件そして気象条件の下、インカ帝国が統一されていく歴史には驚かされた。インカ帝国は15世紀半ば以降急速に拡大し、南北4000kmの領土と600万人を越える人口を持つ大帝国となったのである。地域社会同士が互いに協力し合う共同体方式がとられていたらしく、また国内の物資輸送や情報伝達のために首都クスコから全国に張り巡らされた38,000kmにも及ぶインカ道が整備されていたらしい。しかし環境の異なる広汎な国土条件の中で、帝国統一と運営のための王制制度、社会制度そして食料確保を始めとする経済基盤造りなど不明なことも多く、何か謎が更に深まってしまったような気もする。

 振返ってみれば、この不思議の国ペルーへの長旅は、古代人が私に設えてくれた謎解き舞台への招待であったようだ。そこから多くの感動を得るとともに身近な国となったが、古代人が果たそうと願った想いは何だったのかという謎は十分に解き明かされたわけではなく、新たに加わった疑問と共に、アンデス文明への好奇の心はこれからも続いていくだろう。あわせて貴重な歴史的遺産であるこれら遺跡の保存を願わずにはいられない。
 そして、片道二十時間にも及ぶ長時間フライトや高山地帯での肉体的難儀などの苦労は、あの空中に浮かぶ古代都市遺跡を目前にすることや、意味することが何なのかその解明を待っている地上絵との出会いなど、人の心を刺激して止まぬ感動を得るためのものと思えばよいようだ。大きな喜びを得るには、それに見合うだけの苦労や負担があってこそと知って納得したのであった。
                                         
              2009/05/07 相原

コメント

_ 松沢 ― 2009/06/14 20:29

相原兄

志村兄の北欧旅行記に続き、貴兄のペルー旅行記です。

私がブラジル/サンパウロに4年間出向中の1981年ころ、家族4人でご紹介のコースもツアーしたことがあります。
なにしろ日本からは二度と来ないだろうとて、ボーナスを全部つぎ込み、子供の学校休みを利用し南米各地を観光したものです。

貴兄の名文を読みながら当時を思い出しました。 有難うございました。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yabu.asablo.jp/blog/2009/06/11/4361294/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。