デンマルク国の話 by 相原2014/02/12 09:56

仙台 相原です。
久し振りに「燦々会ページ」に投稿したいと思うのですが、宜しかったらアップ願いたいのです。
テーマは「デンマルク国の話」なのですが、実は今年の年賀状にこのことを書きましたところ、何人かの方から前向きのコメントを頂いたのです。
ということで、年賀状向け原文を皆さんに届けてみたいと思うのです。よろしく.
                     
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                         デンマルク国の話    相原               
■ 国は戦争に負けても亡びはしない
 「デンマルク国の話」この話は、内村鑑三氏が約100年前に、1864年の対プロイセン戦争に敗戦したデンマークがその後どのように復興していったかについて語ったものです。「信仰と樹木とを以て国を救いし話」と副題されています。その中で内村氏は、3つの教訓を言い残しています。

1.国は戦争に負けても亡びません。国の興亡はその民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神があれば国は戦争に負けても衰えないのです。
2.天然には無限的生産力があります。小国デンマークであっても国内を開発すべきです。
3.国の実力は軍隊やお金ではなく信仰の力です。

これら3つの中で私は「国の興亡は国民の修養による」とすることに大いに関心を持つのです。
修養とは「精神を鍛錬し優れた人格を形成すること」と広辞苑にあります。
氏は「戦争に負けても、精神に負けない民が真に偉大な民である」と語っているのですが、翻ってわが国日本は、太平洋戦争敗戦後どうであったでしょうか。我が国は大戦に大敗しそして精神面でも大敗したのです。そして敗戦後70年近く経過する今でも、この2つの敗戦は続いています。「米国に物言えぬわが国日本、そして自立自尊の精神を持てぬ我々日本人」これが現在の日本の実態だと思います。
我々日本人は今「国は戦争に負けても亡びませんが、精神で負けた時にこそ滅ぶのです」という内村鑑三氏の言葉を改めて思い返すべきだと思うのです。


■ 自立自尊の精神を失くした人々
 人間にとって大切なことの一つは、社会生活において自由が確保できることだといいます。
自由を持てることが人間として最も基本的な喜びであるというのです。しかし今の日本にはそのことが当てはまらない人たちがいるようです。何故なら、何事も自己責任を前提として「自由」を堅持していくよりも、誰かが決めてくれる「枠組」に従っていく方が気楽で居心地がよいと考える人々がいるらしいからです。 「自由より、束縛の中の気儘」を好んでいる人々がいるというのです。
その人々は安全保障問題でも外交問題にしても結局は自分で決められないでいるように見えるからです。
その良い例は「自分の身は自分で守る」という当り前のことができない日本の自国防衛忌避意識にみることができます。国家の最も基本的事項である国防を他国に依存すれば、他のあらかたのことは相手の言う通りにしなければならなくなるのは理屈です。借りは必ず返さなければならないのです。
このように自立自尊の精神を堅持できず自国の防衛さえも他国任せにしている様は、精神的敗戦国の証左ではないでしょうか。しかしこんなつまらぬことを長年続けている原因を他国の所為にしてはなりません、この問題は今や我々日本人自身が解決すべき民族的課題となっているのです。


■ 必要な我が国教育の改革
 我々日本人の真の精神を蘇生させるには、遠回りかもしれませんが新しい教育の実現が必要だと思います。平成24年末政権交替があって、先行き我が国の政治が変わっていくことが期待されるのですが、教育も大きく改革してもらいたいものです。

ところで戦後教育は失敗でした。太平洋戦争敗戦後占領政策遂行を目的に米国より与えられた憲法と教育方針とを長く維持してきた戦後教育は、占領政策の目的が二度と日本の大国化を阻止することであり、元々目的が違っていただけにわが国が求めるべき人材育成に成功し得なかったことは当然のことだったのです。道徳、愛国心、伝統、宗教などが軽視され教育にかかわる責任体制も教育基本法を抜本改定し戦後日本人の軟な精神と根性を正し、改めて自立自尊の精神を再生することで、属国からの独立と真の日本国の実現を果たし、日本人の精神改革を実現しなければならないと思うのです。

そのためには義務教育は無論のこと成人教育にも配慮して、日本人全体の品格の向上と人間性の強化を図りたいのです。それには、まずは幼児期の教育から始めなければなりません。幼児期の脳の能力と柔軟さとには驚くほどのものがあり、この時期に教える内容と教育方法については十分吟味すべきだと思います。就学以降の義務教育では社会で生きていくために必須な「読み書きそろばん」を強制的に教えるともに、高学年では勉強の面白さを感じさせるよう指導することが必要です。いわゆる高学年では子供たちに自信を持たせるよう指導する必要があるということです。自信とは自分を信ずることですが、学業への自信がつけば自ずと勉強が楽しくなり、自発的に勉強が進むこととなるでしょう。これでこそ子供たちの能力を引出すことのできるエジュケーションとなり、義務教育は大成功となることでしょう。従って、この時期の教育を
担当する教師の役割は、子供たちに自信を持たせることなのです。その時には教師と生徒たちには強い絆が生まれ、それは一生を通しての長く深い付合いとなることでしよう。
教師は長いこと先生であったことを喜び、懐かしみつつ人生を過ごすことでしょう。教師冥利に尽きるとはこのことではないでしょうか。国旗掲揚に起立せず国歌を斉唱しない教師がいるといいますが、愛国心を否定するのでしょう、このような教師に国と子供たちとを思いやる教育はできるはずがないと思うのです。

 次に、育児教育を担う母親と労働力として仕事を担う女性の一人二役について考えてみたいと思います。
「乳児は肌身離さず、幼児は手を離さず、児童からは目を離さず、青年からは心を離さずに」といいますが、育児は基本的に母親が共稼ぎをしながらできるものではありません。年寄りがいる3世代同居家族とかチャイルドヘルパーを雇える家庭以外無理なのです。特に、乳児を抱きしめて育児する母親の役割は誰にも代われるものではありません。昨今の社会は、女性に母親の役目と労働者の役割とを期待しているようですが、これはおかしいことです。
女性に一人二役を要求することは基本的に無理でありおかしいことなのです。子供たちを立派に育てることで、母親は一人の人間としての役割を十分果たしたと自他共に評価すべきなのです。無論その上で他の仕事もやり遂げようとする女性の考えを否定するものではありませんし、また、夫婦の共同作業としての育児を否定するものでもありません。
社会が一般論として女性に一人二役を要求することを当然とすることはおかしいということなのです。

今の日本では多くの可笑しなことがあることを、多くの国民は知っているはずです。
政治も外交も教育も、何故長い間それを改善しようとする行動が起きないのでしょうか。
改めて我々日本人の心は、今何か間違いか勘違いかをしているのではないでしょうか。
改めて内村鑑三氏が言った精神的劣化が民族のそして国の衰退につながることに気付くべきだと訴えたいのです。






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