57年前の夏の思い出 by 加藤2014/06/18 08:25

                   57年前の夏の思い出:140528                    
                                                                                          加藤 和明
有線での電気通信では「インピーダンス・マッチング」というのが大事である。テレビのアンテナ端子などから受像機(の端子)までを結ぶ同軸ケーブルに75Ωとか300Ωと書いているヤツである。これが合っていないと信号の授受に齟齬を来たす。送受が不能となったり、信号のレベルが大きく低下したりする。電気信号に限らず何事も、送り手と受け手の“impedance”が合致していないと、“受け渡し”は上手く行かない。情報の授受、任命権者の任命権行使、などを観ていて時々心に浮かぶ感想である。
最近は、大学などを卒業しても就職口を見つけるのは容易でないと聞く。大学への進学率がわれわれの頃(1954年入学)に比べると大幅に増大し卒業生の絶対数も大幅に増大している。日本の大学は「入るのが難しくても出るのは易しい」ことが国際的にも良く知られているので、ムベなるかなの現象である。われわれの頃は、専攻の学部・学科により事情は違うかと思うが、指導教授の推薦状を持っていけば大体において好きな会社に入れてもらえたものである。因みに、高卒者の進学率についてのデータを見ると、1955年は13.1%であったのが2009年には55.9%となっている。高校への進学率も今と違って100%には達していなかった。大学(4年制)の数でいうと228(1955年)から765(2008年)に増えている。少子化を迎えてこれから、これらの数字はどのように推移していくのであろうか。
ともあれ、就職が容易であろうがなかろうが、“就きたい職業”と“就いた職業”のマッチングが合わずに、苦労したり後悔したり転職したり失職したりする例が何時の世にもある。それで近頃は欧米に倣って“internship”というのが流行っているようである。現役最後のdecadeを教育主体の大学教師として過ごして居たので学生を送り出す側の苦労も経験している。就職に伴う“matching”の適正化を図る上で“internship”は大変に望ましいことと考える。
実は、半世紀以上も前の事になるが、私が学んだ学校(東北大学電気工学科)では既にこのような仕組みが用意されていて「夏期実習」という名で正規の授業科目に加えられていた。学友の中には、“matching”の調査というよりは、伝え聞く“お手当”(アルバイト扱いにしてくれる会社も少なくなかった)や先輩たちのモテナシについての情報を拠り所に実習先を選んだ者も居たような気がする。
私の場合は、その頃、何を血迷ったのか、大学院から物理に転じようと思い始め、夏休みをそのための受験勉強に当てることにしたのであった。それで、実習先の希望欄に「NHK仙台放送局」と書いたところ、懐の広いNHKさんは快く(?)受け入れて下さったのである。man-to-manでお世話を戴いたtutorialは、1947年(昭和22年)に名古屋大学の電気工学科を出られたという中村技師であった。テレビの放送が開始された直後であり、その関係の仔細をたくさん教わった筈であるが、今覚えているのは、七夕の中継放送の現場を体験したことだけである。写真は、本番前のカメラ操作をしているその時の筆者の姿である。当時のカメラはモノクロなのにこのようにゴツイものだった。中村さんは、私の母の出た青森県黒石の出身であった。その所為だけではないと思うが、とても親切に接してくださった。 

カメラ(勿論モノクロ)のモノモノしさ(レンズが近遠4種類ついていて回転させて使い分ける)を見てください!                                                        1957年8月上旬(7日?)撮影

電気の本質を極めたいという野望に取り憑かれた若者にとって、当時憧れの対象は数えきれないほど沢山居られた。湯川秀樹(敬愛する偉大な先達であっても以下では敬称を省略)が、私の生まれた年に考え出した中間子論で1949年に日本人として初めてノーベル賞を授けられたのも大きく影響したと思うのであるが、秀才たちがこぞって理論物理を専攻していたからである。私がメンクイの女性であったら、早川幸男(後の名古屋大学長)の追っかけをしていたかも知れない。しかし当時特別に関心を抱いていたのは、梅沢博臣という新進の研究者であった。
電気を専攻したのちに物理に転じた偉人は少なくない。朝永振一郎の師匠であった仁科芳雄は東大電気の銀時計であったし、東大総長や学術会議会長を務めた茅誠司は東京高等工業(今の東京工大)で電気を学んだあと東北大で本田光太郎に物理を学び北大教授となった。量子力学の建設と陽電子の存在予言で有名なPaul Diracも電気の出身である。余談だが、Diracがケンブリッジ大学で占めていた教授職は数学のもので、かつてはニュートン、マックスウェルが就いていたものであり、今は車椅子のホーキングが就いている。
件の梅沢博臣という人物に話を戻す。彼は、名古屋大学理学部物理学科「素粒子論研究室」の助教授の職に在った1953年7月31日にみすず書房から「素粒子論」という難解な書物(写真参照)を出したのであるが、それは名古屋大学の電気工学科を卒業して6年目のことであった。その後東大本郷の物理学科の正教授となり、この本はNorth-Hollandから「Quantum Field Theory」というタイトルで英訳された(1956年)のであった。1995年3月25日に胆管がんのためアメリカの病院で亡くなられた(享年70歳)がその時はカナダのアルバータ大学の教授であった。カナマイシンの発明で知られる梅沢浜夫、科学技術庁事務次官を務めた梅沢邦臣を含む、有名な梅沢6人兄弟の末弟である。
西澤潤一先生から推薦して戴いて1956年から日本物理学会の会員にして戴いていたので、湯川先生が編集長をされていた理論物理の英文誌Progress of Theoretical Physicsを(分からないながらも)毎号眺めていたのであるが、そこには、 H. Umezawaの名前の付いた論文が何度となく出て来るのであった。
NHKの“指導教官”であった中村技師は、なんと、名古屋の電気工学科でその梅沢先生と同級だったのである。それも非常に親しく付き合っていたというのである。将に“事実は小説より奇なり”である。そういう訳で、NHK仙台放送局での“実習”は「梅澤博臣先生の学生時代のエピソード聞きまくり」と化したのであった。今なお覚えているエピソードには「片時も手から本を離すことがなかった」「その殆どは外国語であった」というのがある。上記書物の1頁目に、デイドロの「自然の解釈に関する哲学的思索」から“ライスを持て、しかしライスに汝を所有せしめるな”(小場瀬卓三:訳)を含む、長い1節が載せられているのを目にしたときの衝撃も残っていて、こんな秀才が世の中に居られるのでは、自分如きが理論物理に転じても仕様がないと悟った。研究室の実質的主であった西澤潤一先生に強く反対されていたこともあり、大学院での物理転向は断念し、出来たばかりの原研(日本原子力研究所)の公募に応じ研究員となった。特殊法人といえば「NHK」、「日銀」、「原研」と言われるくらい珍しい組織であったが、来る日も来る日も勉強ばかりで、実体は給料付で大学院に入れてもらったようなものだった。
実習の最後に中村技師が私に向かっていわれたことは『NHKだけは就職先に選ばない方が良い』であった。NHKから見たとき、私は“マゴウカタナキ落第生”なのであった。


みすずの担当者は、こんな難しい本を此の著者に書ける筈がないと思ったらしく、”奥付”には、このように”訳者略歴”と間違えている。



コメント

_ 管理人 ― 2014/06/18 10:32

文中にある夏季実習,小生は破格の待遇の良さに目が眩み実習先を選んだ一人である.という事で北原,三浦の両兄と富士鉄広畑にゆくことにした.実習期間は美味しい食事が3食付き,200円/日の日当いただける大変優雅な日々を過ごした.動機不純の小生を除いいて北原,三浦の両兄は富士鉄に入社した.
実習は必修科目っであったのでこれを行わないと卒業できない.小生は医者から夏休みになったら緑内障の手術を勧められていたが,取り敢えず実習を先に済ますことにした.実習を終えてすぐに手術をしたが,その後の状況を悪くしてしまった..

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