五重塔 その不倒神話の不思議 by 相 原2009/09/29 19:53

五重塔 その不倒神話の不思議

相 原 

◆ 五重塔のシルエット 
 うす墨を流したような山並みを背景に、古寺と五重塔がいならぶ佇まいは人の心を和ませてくれる。近づくほどに、建物群の中に逆光で見る五重塔の墨色に浮かぶシルエットには、思いもよらず好奇の心を唆される。単なるランドマークとしてだけではなく、何かが御すとの想いが強くなる。それにしても仏塔のあの伸びやかに天に向かって立つ様は、力強い勢いを感じさせ、心に響く一幅の絵になる眺めではある。間近になるにしたがい五重塔は、益々見目良く映るのだが、これだけ細身の高塔は大きな地震や嵐にはとても耐えられないのではないかと誰しも思うことだろう。ところが倒れないというのである。あの秀麗ながら細作りの木造建築が大地震にも耐えうるとは、一概には信じられないのだが、大正の関東大震災でも最近の阪神・淡路大震災でも倒れた仏塔はないというのだ。日本の仏塔は地震では倒れぬという厳然たる事実があるのだという。何故なのか、五重塔不倒神話の秘術とは何なのかと、いよいよ仏塔に対する関心が高まる。

◆ 仏塔の起源 インドのストゥーパ
 ところでそこに存す仏塔は人に何を問うているのだろうか。見る者の信心を問うているのか、それとも人の諸々の驕りを諭そうとしているのだろうか。縄文以来日本人の基本的宗教概念には、神道精神が根付き今でも変わっていないと思うのだが、6世紀に入って仏教が伝来したことは日本人に対し大きな宗教的・文化的衝撃となったものと思われる。仏教の導入に伴なって経典や仏像が入ってきた、埴輪しかなく経典もない神道にとって、荘厳な仏像はショックであったに違いない。自然の中に静まり返っていた日本の神々は、仏教の出現により絢爛豪華な仏像や仏堂を見て驚愕し危機意識を持ち、永久社殿を作るようになったといわれる。一つのカルチャーショックとなったであろうことは想像に難くない。そして神道の墓は元来前方後円墳であったのだが、仏教伝来以来作られなくなったというのだ。何故なのか。代わって仏塔を、舎利を納める聖域・前円とし、本堂と組合せる前円後方墳方式に変更されたようなのだ。仏塔はもともと釈迦の墓であるインドのストゥーパが起源で、それが中国を径由して卒塔婆、塔婆と変化し、わが国でも塔、供養塔の意として今も用いられている。事実仏塔内は、初重の四天柱の内側を舎利を納める聖なる場所とし、二重以上には部屋もなく人も登れぬ構造としている。いわゆる仏塔自体を聖域とし、ストゥーパの流れと日本古来の前方後円墳の伝統とを併せ継承し、神道と仏教とが上手く融合しているといえるようだ。ついでながら、神道の前方後円墳は、本来前円後方墳と見ることもあるのかと思う。前方後円墳は前方部が祭壇で、後円部が埋葬場所とする研究結果もあるようで、前後関係は名称の形容上の問題であれば、前円後方とすることも出来るのではないかと思うからである。

◆ 五重塔の構造と不倒神話
 わが国には今、国宝、重文の五重塔は25基、三重塔は57基あるというが、嵐や地震で倒れた塔は殆どないという。殆どとしたのは、多くの五重塔を調べる中で大風によって倒壊した五重塔があったからである。ただし地震による倒壊はないらしく、仏塔の耐震強度は驚異的ともいえるものらしい。幸田露伴は「五重塔」の中で、のっそり十兵衛が谷中の感応寺に造った落成直前の塔が大嵐に会い「五重塔は揉まれ揉まれて九輪は動ぎ、頂上の宝珠は空に得読めぬ字を書き」と記したのだが、この塔も倒壊しなかったのである。しからばこの仏塔の不倒神話を科学は何と説明しているのだろうか。その解明のためには、まず五重塔の基本的な構造をはっきりさせなければならない。

● 基礎
 まず仏塔の基礎だが、現在の高層建築物では、地下にそれに見合う堅固な基礎が作られるのが普通である。仏塔では、地表から地山まで掘下げ粘土で付固める「版築」という方法で作られた基壇が採用されているが、現代の高層建築に見られるような基礎ではない。

● 重(層)の構造
 さて塔本体のうち重(層)を構成する主なものは、してんばしら四天柱(塔心に近い4本の柱)、がわばしら側柱(四天柱の外側の12本の柱)、ときょう斗栱(マスと肘木の組物)、垂木、軒などである。これらの構成物がどのように組まれ一つの重となっているのか、重の支持構造を整理してみよう。側柱と四天柱とで軒と上部重の荷重とを支えているのだが、いずれも通し柱ではない。軒の先端側の重量と軒内側荷重即ち上部重を側柱が支点となって支持するとともに、上部重荷重を四天柱も側柱とともに支持しているのである。側柱と四天柱の上向き支持力に対して、上からかかる下向き荷重は軒外側重量と側柱と四天柱との中間にかかる上部重荷重とである。この上下向きの四つの力がバランスしているのである。更に側柱と重を中心に細部を追ってみよう。 
・側柱は、その頭部に組まれた持送り式組物・斗栱を通して垂木を天秤(ヤジロベー)方式で支持しているが、瓦などの軒外側重量と内側にかかる上部重の重みとが天秤方式でバランスし、垂木がヤジロベーのはねぎ桔木(はねつるべ)の役を果たしている。              
雨の多い日本では出の深い軒が特徴となっているのだが、斗栱は側柱支持点を外側に持ち送ることでこれを可能にしている。また斗栱は、軒を深くする程に複雑化しまたそれ自体が装飾性を増していって、塔全体の姿形をも美しくしていく。斗栱自体は斗と肘木との組物であり、それ自体が地震力を減衰させてもいる。
・各重はそれぞれ独立しており、鉛筆のキャップを積重ねるような積み上げ構造となっており、地震時には上下重が互いに逆方向に動くスネーク運動をする柔構造となっている。また上下重はリジットに固定されているのではなく、ほぞあな枘穴と枘との嵌合によって連結されている。
以上の方法で仏塔の柔構造が実現されているのです、見事です。
この上下重の連結方式は、アテネ・パルテノン神殿の石柱連結方法に共通しているのではと思ってしまう。神殿の柱は、円柱状の大理石を数個積み上げ、接合面中央のくぼみに木片を差込んでいるだけの柔構造なのです。

● 心柱とその意義
 肝心な心柱だが、仏塔の中心部は吹き抜け空間となっておりそこにしんばしら心柱が立っている。心柱は塔身と最上部で接している以外他で接続しておらず、また各重との間にも構造上のつながりはない。また心柱は礎石の上に立っているものが多いが固定されておらず、更に浄瑠璃寺の三重塔のように仏像を安置し儀式を行う場所を確保するため初重の梁上に立てられているものとか、日光東照宮の五重塔のように周囲の塔身から吊り下げられている構造のものもある。いうなれば仏塔を支持しているのは心柱ではなく、心柱は塔頂部の相輪を支えているだけのようにも見えるのだが、それだけだろうか。わが国には古来より「柱信仰」があって、心柱の中に仏舎利を祀る場合もあること、一家の柱とか神の数え方が柱であるとか柱が神に結び付いていることがある。また家の中心となる柱を大黒柱と呼びそこに神の存在を認めているし、新築する家の中心となる柱に建前時に紅白の布を巻き神事を行うことなど柱信仰につながることがある。仏塔の心柱も柱信仰につながり、心柱の存在が構造的なことよりも宗教的に大切な意味を持っているとも考えられる。心柱の耐震上の意義としては、地震時スネーク運動をしている各重に対し心柱がかんぬき閂として働いて、振動を減衰させ塔全体の耐震性を保持している効果もあるし、またもう一説として二重振子説もあるという。仏塔本体がひとつの振子となり心柱も別な振子となって、地震エネルギーを減衰させるとの説である。

● 仏塔の耐震性
 軽い屋根、筋違、接合部強化そして堅固な基礎、これが耐震設計の基本であるというのだが、日本の仏塔はこれらの要件を全く満たしていない。にもかかわらず高い耐震性を持つというのである。構造的には各重同志は結合されているわけではなく、ヤジロベー・キャップ方式と心柱閂の組合せによって、50メートルにも達する木製高塔の耐震対策を実現できている。要するに、塔身が柔構造であることによる免振効果、多重であることによる減衰効果そしてスケール効果などが耐震性向上に寄与しているのである。このように仏塔は見事な耐震性を有しているのだが、現代のシミュレーション技術などによって更に解析が進められ、最新の耐震設計と差がある建築物の耐震性を明快に解析してほしいものである。それにしても古代の匠たちが科学技術の発達していない時代に、普通では発想できそうにない柔構造を考え出したということは、どのような経緯を辿って完成されていったのだろうか。しかも構想を具体化していく時の試行錯誤をどのような経緯を辿り克服し、確信するまでに至ったのであろうか。思うほどにその苦労が偲ばれるのである、素晴らしい。

◆ 日本建築のみやび雅など
 仏塔の持つ美しさは、天に向かう伸びやかさと勢い、彫りの深い軒造形、そして「日本建築は屋根の建築」といわれるように屋根の形などにある。仏塔は古には釈迦の威徳をあまねく知らしめようとするものだったろうが、今になってその美的価値に加えて新たな役割を持つようになっているようだ。それは人間の持つ五感や第六感なるアナログ感覚が、最近のデジタル計算機にも劣らぬ能力を持つことを証明しているのか、いや優劣の問題ではなく、人の脳は計算機とは別分野の大きな能力を持っていることを証しているということである。このことを不倒神話を持つ仏塔の場合「古の匠の智恵と技」というのかもしれぬ。ならば、そこに匠の技とともにギリシャ建築にも類する美意識の存在を期待したいものである。パルテノン神殿のエンタシス、黄金比とか内転びなどに対比できる程の発想はなかったのだろうか。法隆寺にはエンタシスは導入されているようだが、白銀比を含む更なる美的概念の伏在を期待できないものかと思ってしまう。五重塔の美的概念については、初重と五重の屋根の逓減率が気になるのです。逓減率が大きければどっしり感を小さければスマートさを見せることとなるのだが、法隆寺五重塔の逓減率は0.5、他の細身の塔では0.7などがあり、ここに古人の何らかの美的感覚が隠されていないのかと思ってしまうのです。とにかく「神殿はギリシャ建築の華」というが、「五重塔は日本建築のみやび雅」といえるのではないだろうか。
そして日本の伝統的木造建築技術である仏塔の柔構造理論が、現代の高層建築技術に用いられていることを、日本人として大変誇りに思うとともに、考えるほどに愉快なことである。「五重塔はなぜ倒れないのか」の著者上田 篤氏は、現代日本は西洋文明を多く受入れ発展してきたが、わが国独自の技術にもとんでもない可能性が潜んでいることをこれら五重塔は教えてくれているように思うと言われているが、首肯しうることである。
ところで仏塔が地震には強かったのだが、火災で焼失することは多かったようだ。貰い火もあろうが、落雷が原因ということも多かったらしい。あのスマートな高塔から思われるのは、塔頂が避雷針にも似た、雷神の大いに好む姿でもあるように思われる。法隆寺の五重塔には雷よけの護符が付いているそうだ。避雷符なのだが、やはり高塔の宿命である雷の難から塔を護ろうとしたのであろう。そのせいかこの塔にはこれまで落雷が無かったといいたいところだが、昭和の最後の宮大工といわれた西岡常一氏は幾度か落雷があって心柱に雷火の痕跡が残っていると記されている。震災には優れた技を考えた古の匠達も、火難にはお守り以上のことに思いが及ばなかったということなのだろうか。技を持つ匠たちも神頼みする人間なのだ。  
最後に一言、山本直人氏が「今日の発言」の中で「仏像を見る目」について、「仏像とは観賞するものである以前のこととして礼拝するものである」と言っているのだが、納得できることである。ならば五重塔も同じことであろう。五重塔を建造物として、また美的対象として見てきたことだけでは不十分ではないかと気が付いた。無論芸術的対象として堪能することもあって当然ながら、元々は信仰の対象であるとの基本存在であることを承知しておくべきなのであろう。五重塔については、元来神道の前方後円墳の後継としての存在であること、即ち五重塔がもつ墓墳としての位置付けを忘れないことが求められる。

(参考文献)
上田 篤: 五重塔はなぜ倒れないのか  
幸田露伴:  五重塔
高田良信:  法隆寺の謎
西岡常一, 小原二郎:  法隆寺を支えた木

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