「臨終の心得」再び by 相原2013/08/22 08:01

                     「臨終の心得」再び
                            相原 孝志

■ 死を悟った人
先日友人が亡くなった。肺ガン発病後一年にも満たないアッという間の出来事であった。入院当初、本人も周りの我々も全快を信じていたのだが、病状とともに本人が余命を感じ覚悟を決めたであろうまでの時間は長くなかった、その間心情の経過はどんなものだったのか。発病を知らされて「本当なのかとの疑い」、「何故自分がという怒りと絶望」そして考えあぐねた末の「受容」とちりぢりなる心境を味わったのであろうか。そして死を覚悟した時感じた恐怖にどう対処しようとしたのだろうか。人は人生の終末を迎えた時死を意識する時があるというが、その時人は何を思うのだろうか。自分の残した実績か、家族のことか、神様のことか、それとも……。
彼が亡くなる半月前、病床の彼を訪ね長話をしたのが最後となってしまった。手の一部が不自由となっていたが表情明るく 頭ははっきりして普段通りの会話ができたのであった。話の中で私は「君は今、死の怖さをどう感じているのか」と問いたかったのだが結局できなかった。彼は既に自分の余命を覚悟していたかもしれぬと思ったものの、静かな心境で話す相手に対して余りにも気配りのないことかもしれぬとったからであった。以前「臨終の心得」を書いたが、彼の死を契機に改めて考えてみたい。
それにしてもそれまで元気に生きてきた人間一人、驚くほど簡単に戸籍から抹消されてしまうものだ。それだけに家族や知人の心の中に長くそして深く留まる存在とならなければならない。

■ 死とは何か、死は怖いもの
・死と生は紙一重
東日本大震災の大津波で車ごと飲み込まれた私、九死に一生を得るという貴重な経験をしたのだが、命を取止めて改めて思ったのは「生と死がこんなに間近にあるのだ」ということだった。死は十分な生の後にやってくる結末でも終点でもなく、年齢にも関わりなく、死と生は何時も共にあり表裏一体の関係にあるということを確かめたのである。改めて生と死に関わる死生観について、生を受け生きる素晴らしさと意義、そして避けて通れぬ死についての心構えとを時折考えておくべきだと思ったのである。人生の終末・死は万人共通のものだがその時までをどう生きるのか、特に終末の時期をどう過ごすのかは、それは人それぞれであり極めて属人的なことであるからだ。

・理屈でない死の恐怖
ところで、物心ついた頃死ぬとどうなるのだろうか「死」は恐ろしく怖いものだと強い不安を覚え、思い悩んだことを思い出す。死生観の核心の問題である「死への恐怖」については、そこには「生への執念」と「死後はどうなるのか
ということがあって、これらが「死への恐怖」を醸成していく。この世に誕生した以上生に執着することは人間の本質であり、その生が断絶される可能性に対して絶対的危機感を持つこととなるのは当然だろう。また死後のことについては、天国や浄土、輪廻転生などを信ずる宗教信者であれば、来世を信じ死は一つの通過点であるとして心の平安を保ち続けられるのかもしれない。ここに宗教を信ずる意義、信仰の有難みがあるのかもしれない。ただ私には信じられない、そして死の恐怖は理屈ではない。

・自分の死
さて今悠々自適の時となり、それまでの人生を振返る余裕が生まれた時「死とは何か」「生とは何か」「宗教とは何か」と想いを巡らし、遠くに目線を合わせ静かな時の成り行きに身をゆだねることのできる頃、再び「死」について考える時がやってきた。死には「人生の終末としての死」、「生を考える背景としての死」そして「晩年近く直面することとなる自分の死」と三つの死があるように思う。高齢者となった今の関心事は、自分の死への認識が今後どのように推移するのかである。迫ってきているかもしれぬ自分の死を迂闊にも見逃してしまっているのかもしれないが、今の私は死に対する恐怖を格別に感じているわけではない。しかし今後死の恐怖に再度襲われることとなり、どのように変化していくのかが気になるのである。死を極度に恐れていても致し方ないようにも思えるのだが、宗教とは関わりなく死生観について更に考えておきたいと思う。

・最後のありがとう
これから準備すべき心構えで特に気になるのは、それまでお世話になった人々への感謝の気持ちを、心からの「ありがとう」を、そして別れの言葉を伝えることが出来るのか、伝えるための機会を得ることが出来ればと思う。また自分の死の前に、自分の死より悲しいだろう愛する人々の死と出会うこともあるかもしれない、その時の格段に大きい悲しみに耐えるべく心の準備も求められていると思う。他にも心しておかねばならぬことが幾つかあるようだ。それは死の前にやってくるかもしれぬ認知症もその一つである。それは心を失っていく人間の有様を見せるのだろうが、それは人生末期の静かな悲しみ、孤独感、情けなさなどを深め、そしてそれらのことさえ失っていくこととなるのだろうか。その時の心境の変化は如何なものなのか確かなことは分からぬが、最後まで感謝の気持ちだけは大切に持ち続けていかなければと思っている。

■ 必要ない臨終の心得
ところでこれまで多くの人々の最期に立ち会ってきた。今はの時「早く楽になりたい」「生きているのも楽でない」と言われたことを忘れてはいない。このことは、痛みや苦痛から解放されたいとの願いは大きいものの、死そのものへの恐怖を意味していたとは思えなかった。「多くの人々は安らかに亡くなっていく」と長く高齢者医療に携わってきた医師の言葉もあるし、また「木が次第に枯れていくように、あるいは朽木がいっきに倒れるように、極めてあっけなく安楽な死を遂げるものである」といっている医者もいる。どうも死に対する怖さや関心は健康時にこそ強く意識されるものの、病とか老衰のように心身の衰弱に伴なう過程では、痛みや苦痛は残るものの死に対する恐怖の意識は希釈緩和されていくのではないのだろうか。そして自然死の今はの時には、特別な「臨終の心得」を求められるようなこともなく、天国のお花畑を見られるかどうかは別として、心穏やかな終末を迎えることができる天与の摂理が準備されているのではないのだろうか。そうだろう、そうあってほしいと楽観的に考えてしまうのである。死ぬのは嫌だと大声でながら亡くなる人はいない、多くの人は大変穏やかに人生を終えるようである。


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