死について考える by相原2017/06/05 07:06


     死について考える

                  相 原 孝 志

八十路入りした私、人生の大きな節目を迎え、そろそろ自分の死について考えてもよい時を迎えているようだ。

■ 死とは何か、死は怖いもの
・生と死は紙一重
東日本大震災の大津波で車ごと巻き込まれた私、九死に一生を得るという貴重な経験をしたのだが、命を取止めて改めて思ったのは「生と死がこんなに間近にあるのだ」ということだった。死は十分な生の後にやってくる終点でも結末でもなく、年齢にも関わりなく、生と死は何時も共にあり表裏一体の関係にあるということを確かめたのである。改めて生と死に関わる死生観について、生を受け生きる素晴らしさと意義そして避けて通れぬ死についての心構えとを時折考えておくべきだと思ったのである。人生の終末・死は万人共通のものだがその時までをどう生きるのか、特に終末の時期をどう過ごすのかは、それは人それぞれであり極めて属人的なことであるからだ。

晩年近く直面する死
さて今悠々自適の時となり、それまでの人生を振返る余裕が生まれた時「死とは何か」「生とは何か」「宗教とは何か」と想いを巡らし、遠くに目線を合わせ静かな時の成り行きに身をゆだねることのできる頃、再び「死」について考える時がやってきた。死には「人生の終末としての死」、「生を考える背景としての死」そして「晩年近く直面することとなる自分の死」と三つの死があると思う。高齢者となった今の関心事は、自分の死への認識が今後どのように推移するのかである。迫ってきているかもしれぬ自分の死を迂闊にも見逃してしまっているのかもしれないが、今の私は死に対する恐怖を格別に感じているわけではない。しかし今後死の恐怖に再度襲われることとなり、どのように変化していくのかが気になるのである。死を極度に恐れていても致し方ないようにも思えるのだが、死生観について改めて考えておくべきだと、この頃思う。

信仰の有難み
ところで、物心ついた頃死ぬとどうなるのだろうか「死」は恐ろしく怖いものだと強い不安を覚え、思い悩んだことを思い出す。死生観の核心の問題である「死への恐怖」については、そこには「生への執念」と「死後はどうなるのか」ということがあって、これらが「死への恐怖」を醸成していく。この世に誕生した以上生に執着することは人間の本質であり、その生が断絶される可能性に対して絶対的危機感を持つこととなるのは当然だろう。また死後のことについては、天国や浄土、輪廻転生などを信ずる宗教信者であれば、来世を信じ死は一つの通過点であるとして心の安寧を保ち続けられるのかもしれない。ここに宗教を信ずる意義、信仰の有難みがあるのだろう。

■ 老いの目的は何か
死後の世界 
ある日本の哲学者は死について、次のような考え方があるとしている。
1. 肉体は滅んでも、心ないしは魂は存在し続ける。心身二元論で霊魂不滅の考え方。
2. 死んだら自然に還り、形を変えて存在し続ける。
3. 自分の意識は無くなるが、形を変えて輪廻転生を続ける。
4 .何らかの形で、永遠の生命を得る。(仏教やキリスト教)
3は、2と4との間にある考えである。
そしてこの学者は、日本人は3.の輪廻転生の考え方に肯定的であるといっており、いずれの考え方であっても「死は終わりではない」ということであるとしている。
これらの考え方に対し「死後の私」について私は、「死」とは「無」となることだと考えることしかできない。
1. は、心ないしは魂が存在するのは、家族や知人などの心の中に記憶となって存在するのであって、自分の心ないしは魂がこの世に漂っているということではないと考えるしかない。
2. は 自然に還る肉体は元素に還るのであって、物質的変遷の問題であり心や魂の精神の問題ではない。
3. 4.の輪廻転生については理屈としては理解できるが、自分の魂が何らかの形で永遠に生きることについては理解できない。やはり「死後の私」とは、他の人々の心の中に記憶として残るということであり、他の人々の記憶から完全に忘れ去られる時本当の死となるということだと考える。

老いの目的は何か
生物学上の論説の「何故」には、「どういう仕組みなのか」と「何のためなのか」とがあるというのだが、「老化」についての仕組みは医学的に説明できても、「何のために人は老いるのか」については答えられないという。「老い」に目的があるとは思えないというのだ。

命の回数券説
ところで、人間の老化の原因には幾つかの説があるようで、その中に「テロメア説」があるという。細胞の中の染色体にはその両端に「染色体末端粒 (テロメア)」があって、細胞分裂の度毎に回数券をちぎっていくように少しずつ減っていくというのである。このテロメアが無くなると細胞分裂は出来なくなり、これが老化の原因ではないかという「命の回数券説」なのである。細胞の中に寿命時計が組み込まれているというのである。そして最長寿命は120歳が限度で、人間の平均寿命は延びていけるが最長寿命は延びることはないというのである。

遺伝子の戦略論
また、生物の遺伝子は自己の永久持続を前提としており、子孫を創り残すことでその目的を達成すれば、自分の老化を良しと考える「遺伝子の戦略論」をいう学者がいるという。どうだろうこの考え方、理解できそうでもあるが。そしてこれらの話は「死」にも同じ理屈であるというのである。

来世を信じなかった信長も祈ったのです
 私は元々無神論者ではありません。それはこれまでの人生の中で、人力を超越していると感ずることに幾度となく遭遇してきている事実があるからです。身体機能の精巧さを知り、自然界の諸々の不可思議を感ずるとき、また神々しいまでの自然を目前にした時など、これは神業であるとしかいいようのない事態に幾度も出会ってきているからなのである。従って創造神の存在も否定しないし、自然神や祖先霊も信じている。「神とは、神の存在によって神を信ずるのではなく、神を信ずるが故に神が存在するのだ」と思うからなのです。
ある時の新聞に、「信長は、来世はなく見るもの以外には何も存在しないと考えていた」との記事があった。しかしこの来世を信じなかった信長といえども、幾つかの城を築城し、城は防御用の軍事拠点であると共に民や国を守り治める神殿としたのだという。来世を信じない彼にも祈りが必要だったのである。

■ 死の恐怖は、生の願望を拒絶されることにある
死の恐怖と不安
「死の恐怖」は、「生の願望」を拒絶されることに対するものであると思う。「死の恐怖」には、死の直前に受けるかもしれぬ肉体的、精神的苦痛や自己消滅への怖れ、未知なるものへの不安などがあると思うのだが、結局人間である以上本来的に持つ「生の欲望」を死によって拒否されることに対する反発であるといえる。
「死の不安」については、自分の死後自分がどのような存在となるのか、それとも無となってしまうのかを考える時感ずることであると思う。

悲しみと「喪の作業」
「死への悲しみ」とは、大切な家族が亡くなった時感ずる悲しみであり、自分の死より悲しいと感ずるであろう。その悲しみを癒すには「喪の作業」をないがしろにしてはならない。「喪の作業」とは、喪失体験を受け入れ、立ち直っていく心理的な過程のことであり「悲嘆の作業」ともいう。耐え難い悲しみに襲われるとき、立ち直るために「悲しむ」ことから逃げず、しっかりと「喪の作業」を終えることだというのである。

■ 死の恐怖への対策
・最後のありがとう
これから準備すべき心構えで特に気になるのは、それまでお世話になった人々への感謝の気持ちを、心からの「ありがとう」を、そして別れの言葉を伝えることが出来るのか、伝えるための機会を得ることが出来ればと思う。また自分の死の前に、自分の死より悲しいだろう愛する人々の死と出会うこともあるかもしれない、その時の格段に大きい悲しみに耐えるべく心の準備も求められていると思う。他にも心しておかねばならぬことが幾つかあるようだ。それは死の前にやってくるかもしれぬ認知症もその一つである。それは心を失っていく人間の有様を見せるのだろうが、それは人生末期の静かな悲しみ、孤独感、情けなさなどを深め、そしてそれらのことさえ失っていくこととなるのだろうか。その時の心境の変化は如何なものなのか確かなことは分からぬが、最後まで感謝の気持ちだけは大切に持ち続けていかなければと思っている。

必要ないか 臨終の心得
これまで多くの人々の最期に立ち会ってきた。今はの時「早く楽になりたい」「生きているのも楽でない」と言われたことを忘れてはいない。このことは、痛みや苦痛から解放されたいとの願いは大きいものの、死そのものへの恐怖を意味していたとは思えなかった。「多くの人々は安らかに亡くなっていく」と長く高齢者医療に携わってきた医師の言葉もある。どうも死に対する怖さや関心は健康時にこそ強く意識されるものの、病とか老衰のように心身の衰弱に伴なう過程では、痛みや苦痛は残るものの死に対する恐怖の意識は希釈緩和されていくのではないのだろうか。そして自然死の今はの時には、特別な「臨終の心得」を求められるようなこともなく、天国のお花畑を見られるかどうかは別として、心穏やかな終末を迎えることができる天与の摂理が準備されているのではないのだろうか。そうだろう、そうあってほしいと楽観的に考えてしまうのである。死ぬのは嫌だと大声で喚きながら亡くなる人はいない、多くの人は大変穏やかに人生を終えるということらしい。
ところがある精神科医は、弟子たちに自分の死に際を良く見ておくようにと伝えたという。「私がどんなに取り乱して死んでいくか、私は死ぬ時に泣くだろう」と言ったという。また遠藤周作氏は著書『死について考える』の中で、「静かに死ねないだろう」という有名人たちがかなりおられるというのだが、それは元気な時の言葉であり、その通り実行されたか否かは定かではない。

「死」を考えるのは死ぬためじゃない、「生きる」ためなのです。
死ぬ恐怖や不安より、存分に長生きし充実した命を全うすべきだということです。それが「死」に対する対策の結論なのかもしれません。


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