今年も残り僅かになりました2019/12/05 21:48

寒さも厳しくなってきました.
皆さん 体調感に理にはくれフレも留意してください.

20日には’19年忘年がひらかれるようです.遠藤幹事のご苦労に感謝です.素晴らしい会になることを願っています.


メールの添付ファイルが消えてしまうトラブル2019/08/27 10:07

私たち年寄りPCユーザーの大多数はWindowsマシーンでOutlookを用いて電子メールを送受信しています.実はOutlookには大きな問題点があります.それはOutlookで送信された添付ファイルがOutlook以外のメールクライアントで受信すると添付ファイルが消えてしまって見えなくなるトラブルが発生することです.此のトラブルはOutlook同志の送受信では発生しませんからOutlppk利用者間では添付ファイルが不達になる場合があることに気が付きません.そこでOutlookを持たない受信者と添付ファイルの有無について行き違いが生じます.マイクロソフトはこのトラブルに対する対策を講じていません.Outlookを使えばよいだろうと言いたげ見えます.

Outlookを使わなくても此の問題を解決する試みがなされています.しかし万全とは言いがたく,完全な動作を望むっ場合はOutlookを使わざるを得にというのが」実情のようです.
小生はUbuntuでThunderbirdを利用しています,文書の添付ファイルの場合,メール本文に貼り付けてもらうことでことでこの題を切り抜けて来ました.ところが先日写真の添付ファイルが見れなくなりました.友人知人に相談したり,ネット検索をしたりして此の問題の深刻さを知りました.幸いThunderbirdにはLookOutなるアドオンが用意されておりこれを導入することにより元のファウル形式で添付ファイルが表示され見ることがsきました.

追記
Outlookを使ったことがないのでメール形式の設定法は分かりませんが,メール送信の形式をテキスト形式に変更すると添付ファイルの消滅のリスクをある程度さけられるようです.
通常はシンプルな文章の送受信が出来れば良いわけですから,文字化けやセキュリティに問題のあるHTML形式,リッチテキスト形式をわざわざ使う必要はないのではないでしょうか.

意識喪失騷動記 by 遠藤2018/12/25 10:47

                                意識喪失騷動記

何の前触れもなく、散歩中に突然意職を失って転倒し、救急車で病院に搬送、応急診察,治療を受けた。その後、病因究明の診察で不整脈と判明し心臓にペースメーカーを装備することになった。以下にこの顛末を記します。ご参考になれば幸いです。

意識を失い転倒したのは、11月2日(金)15時45分頃であったと思われる。場所は戸塚
駅 2階東口側のコンコース中央部付近で、平坦なのコンクーリト床面への転倒であった筈である。頭部左側後方部打撲痕と左膝裏側の皮膚に内出血見られたので、左後方に転倒したものと推定している。このアクシデントを目撃した親切な方が、救急車センターに通報してくれて、救急車により戸塚共立第二病院に緊急搬送してくれた筈である。通報してくれた人と救急車関係の皆さんには感謝しかない。
意識を取り戻 したのは、点滴を受けている時であった。約45~60分は人事不省であっ
たものと推定している。応急処置と診察は頭部の打僕痕の治療と心臓超音波検査・心電図検査・頭部・胸部・腹部・脊稚X線検査・血液検査等の他点滴注射受けた。日当医師の所見では緊急入院治療までの 必要はないということで、19時過ぎに家族と共に帰宅した。

その後、病因を明確にする必要があると考えて、11月8日に約10年以上前から高血圧治療で世話になっている東邦大学大橋病院・循環器内科中村教授の診察を受けたところ、24時間連続計測携帯型心電図計の測定により、時折、瞬間的に脈拍が低下する不整脈がみられることが判明した。小生はこの検査は勿論初めてのことであり、また不整脈があることは初めて知った次第。中村先生の所見は高齢化によるとのこと。中村先生から、これが治療には早急に心臓にペースメーカーを装着する必要であるという電話が11月12日にあった。しかし 15,16日は戸塚老人会OB12名との日立の鵜の岬の忘年旅行と20日の明善寮同期会があることを説明し、10日遅れの11月21日に入院した。ペースメーカーの装着手術は 22日に受けて、29日に退院した。

今後は、手術後2か月経過時の詳細チェックを行い、以後 6ヵ月毎のチェックをうけることになる。今回の意識喪失による転倒場所が階段とか車道でなかったのが小生にとっては非常にラッ
キーであったと思っている。
ともかく高齢化は思いもしないアクシデ ントを引き起こすことを実感しているとこ
ろである。
小生のような突発的な不整脈は通常の心電図検査では見つけることができないので、
高齢の各位には、一度は、24時間藻続心電図検査を愛診することをお薦めしたい。
                            
                                                            (H30.12.27 遠藤 茂記)


天国に渡邊寧先生をお訪ねして by 加藤2017/08/27 11:57

加藤兄のコメント:
10年前(2006年)に書いた“渡辺先生の想い出”を書き直しましたので、ご笑覧に供します。                       

                            天国に渡邊寧先生をお訪ねして
                                                                                               加藤 和明

   近過去に係る出来事が仲々記憶に留まらなくなってきたということは、人並みに加齢が進んでいるという証しであろう。その所為か、このところ、夢の中で昔の世界に遊ぶことが多くなってきた。昨夜、正確には今早朝(2006 年 5 月 18 日)のことであるが、渡邊寧先生をお訪ねし、おしゃべりを楽しむことが出来た。全く思いも掛けない出来事であり、我ながら楽しい再会であったので、文字にして記録媒体に残しておくことにした。しかし、夢で見たことというのは、所詮、記憶の断片を直感もしくは六感という糊で繋ぐことによって織りなしたフィクションに過ぎない。直感や六感がいつも正しいという保証はないので、この“夢物語”にも独断と偏見が紛れ込んでいる恐れがあることをお断りしておく。

  私は昭和29年(1954 年)東北大学に進学したのであるが、思うところあって学業の方はずぼらを決め込んでいた。充実した時間は送っていたものの2年間遊び呆けてしまった私は、教養部から工学部に進学したとき、急に勉学に目覚め、3年生の身ながら、西澤潤一先生の研究室に入れて戴いた。東北大学付属電気通信研究所「通信用電子物理研究部門」がその研究室の表札で、私はその“看板”に惹かれて恐る恐るドアを叩いたのであった。この研究室の実質的責任者は新進気鋭の西澤助教授であったが、その上に座して居られたのが渡邊寧教授であった。渡邊先生は、当時としても大変珍しいことに、電気工学科の2講座と上記付置研の2研究部門の担当教授であった。丁度、電気通信研究所所長から工学部長に替わられたばかりであり、文部省、電気試験所、電気学会など学外でも沢山の要職に就いておられたので、4つの研究室は八田吉典(放電工学)、菊地正(自動制御工学)、本田波雄(情報理論)、西澤潤一(半導体電子工学)の四助教授がそれぞれ実質的に取り仕切っているように学生の目には見えていたのである。渡邊先生は、昭和 35 年(1960 年)東北大学を定年退職し、静岡大学の学長になられた。こうして、私は渡邊寧先生の最後から2番目の、そして西澤潤一先生の最初から2番目の学生という名誉を得ることになった。余計なことだが、私には昔から一番より二番が好きという変な好みがある。出会った多くの一番さんは、いわゆる“頑張屋さん”で、得てしてユトリの少ない御仁が多かったためだが、ひょっとすると中学校で、卒業時に1番なら「学校長賞」、2番なら「市長賞」といわれ、2番が良いなぁと考えてそれを目標にしたことがホントの源泉かも知れない。ご褒美が前者は辞書だったのに、後者は置き時計だったことも魅力であった。
ともあれ、西澤先生が将来東北大学の総長になられるなど、またその後更に2つの大学で学長職をこなされながら、私にとっては仕事の上で関係のある、原子力産業会議の会長職にまでお就きになられることなど、全く予想も出来ないことであった。
一方、渡邊先生については、小学校に5歳で飛びつき入学を許された、生まれついての秀才であり、還暦過ぎたお歳になられても朝4時から勉強をされておられる、などと聞かされていたので、全くもって“神様”のような存在であった。陸士(陸軍士官学校)を希望したが、身長が足りなくて望みが叶わなかったこと、大学(東京大学の電気工学科)での成績はまるで駄目だったこと(ご本人の弁)、2度のご結婚が共に“恋愛結婚”だったこと、8人ものお子様を残されたこと、仙台でご自宅が空襲に遭われたときの“奮闘記”、などから、人間としても魅力溢れる先生だと知って一層敬愛の情を深くしたのは、ずっと後のことである。

 * * * * *

K(加藤和明):お久しゅうございます。天国でも晩酌を楽しんで居られるのですか[先生はお亡くなりになる直前、お嬢様の導きでカトリック教徒と成られた]?
W(渡邊先生):そうじゃが、君は誰だったかね?
K:ご記憶にないのもムリナキコトと思います。先生の研究室の一つ、西澤先生のところで卒業研究をさせて戴いた、先生にとっては東北大学で最後から2番目の学生で、加藤和明と申します。当時は教授といえば学生にとってどの先生も雲の上の存在で、遠くから仰ぎ見るだけでしたが、先生はそのまた上にお出ででしたし、何しろお忙しかったですから、直接サシでお会いして、親しくご指導戴くなどという機会は殆ど得られませんでした。
W:それは済まなかったね。そうだ、思い出したよ。片平丁(当時東北大学の主体キャンパス)で物理学会があったとき、江崎さんのダイオードの発表を教えに来てくれた学生だね。
K:そうです、そうです(感激に咽ぶ)。西澤先生にご報告したら「すぐに渡邊先生のところへ伺ってお話するように」いわれ、秘書の長谷川さんに恐る恐る取り次いで戴いたのでした。先生が大変熱心に耳を傾けてお聞き下さり、興奮しておられたのを今でもハッキリ覚えております。
:学科のコロキウムで物理学科の中林睦夫教授(理論物理)に講演をお願いしたとき、超電荷のことを質問したので、隣に居た小池君(勇二郎教授:電子物理学)が、生意気な学生が居るとばかりに目をむいたことがあったが、アレも君だったね。
K:はい、そうです。よくも生意気にあんな質問が出来たものだと、今思うと、顔から汗が噴き出ます。話は戻りますが、江崎さんは当時神戸工業という会社(今の富士通テン)から東京通信工業(今のソニー)に移ったばかりだったかと思います。先生は江崎さんのお仕事を高く評価されて朝日賞に推薦されました。ノーベル賞を授けられた後、我が日本政府は彼に文化勲章をも授けたわけですが、私は先生の偉さに痺れたものです。
W:それで君は今まで何をやってきたのかね?
K:卒業後、先生のお生まれになられた日立のそばにある東海村に行きました。原研(現在の日本原子力開発機構)です。13年半そこで働いた後、筑波に出来たばかりの高エネルギー物理学研究所(現在の高エネルギー加速器研究機構)に移り、24年おりました。さらに茨城県立医療大学という新設の小さな大学で10年ほど教師をしました。今は“放射線安全科学”のコンサルタントとして、時間の切り売り生活をしております。筑波山の中腹に住み、日頃は霞を食べ、たまに下界に降りて人を食うのを楽しんでおります。
茨城県人になりましたので、先生が忘年会のときなどに唄っていらした、大洗の磯節を良く耳にしますが、あれは難しくてとても歌えません。李香蘭の「夜来香」や渡邊はま子の「支那の夜」を聞くといつも先生のことを想い起こします。
W:で、仙台で学んだこと、役立ったかね?
K:それはもう充分に。兵隊・下士官ではなく将校になるための教育を授けて戴いたお陰と感謝しております。先生に “諸現象の含む原理の把握から総合的な判断力を深め、さらに他分野への洞察力を培うことも研究の進め方の一つの型である”と教えて戴いたのが忘れられません。今、日本では、“木を見る名人”はほどほど見掛けるけれど、“森を見る名人”が極めて少なくなっています。このような現状を見るとき、渡邊先生のこのようなご見識に、改めて感銘を覚える次第です。

W:あれは、色々のことに興味を持ってしまった自分自身への言い訳みたいなものじゃよ。
K:先生は東北大学を定年退官された後、静岡大学の学長にお就きになりました。そしてその任にあるにも拘わらず、東北大学は先生を東北大学の学長(候補)に選んでしまいましたね。
W:そんなこともあったなぁ。
:選んだ方は、大学としてはコチラの格式が上なんだから、来て下さるだろうと期待したんだろうと思います。でも、先生はお受けにならなかった。
:失礼な話だよ。あのときは本当に参ったね。
K:西澤先生が、周りからいろいろ責め立てられて苦しいお立場だったようです。
W:そう、彼にも苦労を掛けた。
K:私は、西澤先生にとって不肖の弟子となってしまい、半導体屋にはならずに放射線の安全に係る仕事をしてきました。放射線防護研究会というのを20年以上前からやっているのですが、昨年(2005 年)夏、科学技術事務次官、原研理事長、等歴任された伊原義徳先生をお招きして、原子力の黎明期についてお話を伺うことができたのですが、そのとき最初の原子力予算に「ゲルマニウム研究」の項目があることを知り吃驚しました。「渡邊・西澤研究室」は実質「半導体研究室」で、西澤先生が狭い研究室を出来るだけ有効に使おうと作られた中二階に「ゲルマニウム研究」と書かれた報告書がうず高く積まれていたことを思い出しました。
W:あの頃は電気試験所(後の電子技術総合研究所、今の産総研)の部長をも兼任していたからね。日本の将来のため、半導体の研究を早く始めなければならないと、使命感に燃えて居たね。
K:大学では、みんな、先生は文部省など国から予算を貰ってくる名人だと言っていましたが、これは、一高(旧制)のとき寮のルームメイトが岸信介(後の首相)だったことと関係ありますか?
W:そういうのを下司の勘ぐりというのだよ! でも、後年、弐度目の結婚式で媒酌人を頼んだりした位だから終生仲良しではあったよ。
「ゲルマニウム研究」は、文部省で科学教育局長を併任でやっておられた茅誠司さん(後に東大理学部長から総長)が半導体研究の重要性を理解し応援して呉れたんだよ。総額3億円の原子力予算に、ウラン研究と肩を並べて同額の 1,500 万円を付けて戴いた。有難かったね。
K:最初の原子力予算は 325M\ でしたが、これは“ウラン235”に因んだものと、あとでどなたかから教えられました。使い残しが大分出たとも漏れ聞いていましたので、その後の日本の半導体産業の発展を目にして、「偉い人は偉いことをするものだ」との思いを深くしました。
 でも、先生は戴いた研究費の殆どを余所の先生方に回して、ご自分では余りお使いにならなかったとか。ともあれ、我ながら品格を欠いた恥ずかしい質問でした。でも夢の中でこのように親しくお話しできるとなるとお聞きしてみたくなるのです。質問を換えます。戦時中、先生は島田(静岡県)にあった海軍技術研究所の実験所で所長さんでした[中将待遇]。
W:ドイツに留学中親しくなった伊藤庸二君(海軍技術将校)に口説かれてね。
K:伊藤さんといえば、実の弟さん(中島茂さん)がお作りになられたアロカという会社が、仕事の上で関係が深く、ずっとお世話になっています。西澤研でご一緒だった伊藤大佐のご長男(1学年上の伊藤治昌さん)にも、ときどき寿司屋に連れて行って戴くなど、大変お世話になりました。
 島田には朝永振一郎先生(後に東京教育大学長、学術会議会長など歴任;ノーベル物理学賞受賞者)や小谷正雄先生(後に東大理学部長や東京理科大学学長など)といった超一級の頭脳を集められました。
W:優れた物理学者を集めたというので、物理学界の大御所でいらした長岡先生(原子模型で有名な半太郎先生;原子力界で有名な嵯峨根遼吉先生の御尊父)に嫌みっぽく冷やかされたものだ。菊池正士さん(後に東大原子核研究所長、原研理事長)や萩原雄祐さん(後に東大天文台長)や小田稔さん(同じく東大宇宙線研究所長や理研理事長)なども居ったんだよ。今でいうレーダ、当時は電探と呼んでいたが、そんなことを研究していたのだよ。
撃ち落とした敵機を調べてみるとレーダが積んであって、アンテナには YAGI と書かれていた。ワシが東北大学に着任したとき八木秀次先生が教授で居られた。その八木先生の名前だった。当時、これが日本人の発明だと気が付いた人は少なかった。今では八木・宇田アンテナと呼ばれている。また、今電子レンジに使われているマグネトロンも岡部金治郎君が仙台で発明したものである(磁電管)。八木先生は、大阪大学が創設されたとき理学部長に招かれ、岡部先生を物理学科の教授に連れて行かれたが、日本のノーベル賞受賞者第1号となった湯川秀樹先生も、八木先生がこの新設理学部に迎えたのだから、偉いものだね。朝永・小谷の両先生は戦後、島田での研究を「極超短波磁電管の研究」に纏められて「みすず書房」から出版され、立派な賞(学士院賞)を受けられたよ。
K:島田での研究成果は戦後、日本無線や日本電子などの会社に受け継がれていきました。
W:そう、超音波発信の技術は魚群探知機を生み出したりしたね。
K:ところで、人間というのは、その歳になってみなければ分からないということもあり、ある程度生きてみてヤット分かることもあります。アタマをちゃんと使う生活をしていれば睡眠時間は短くてもよい、などというのはその一例です。先生は朝型で、還暦をお迎えに成られたあとでも、朝の4時頃から猛烈勉強されておられたとお聞きし、別の人種かと学生時代に思っていました。
W:岸君(元首相)が追悼文に書いているように、一高生の頃は、酒はまるっきり駄目だった。酒を飲む喜びを知り晩酌を楽しむようになって朝型になったのだよ。
K:先生が奥様を亡くされたあと、再度恋を成就されて若い奥様を迎えられたことも、この歳になってみると微笑ましく、また羨ましく思います。このとき“岸閣下”が仲人を務められたのですね。
W:個人情報保護法というのが出来たそうだから、コメントはナシだ。
K:申し訳ありません。private な領域に踏み込みすぎてしまいました。話題を戻します。私は、西澤先生の期待に反してか即してか、半導体屋にならず放射線屋に成ってしまいました。昭和 33 年(1958 年)に原研(日本原子力研究所)に就職したのですが、その直後に渡邊先生が国の原子力委員会専門委員になられたり、東北大学原子理工学委員会の委員に就かれて原子核工学科の設置にご尽力下さいましたし、またずっと後年私が文部省の学術審議会原子力専門部会の専門委員を拝命したとき委員長として現れたのが西澤先生だったりしましたので、両先生のお弟子としてそんなに道を踏み外したことには成らなかったのではないかと勝手に思ったりしているのです。
W:カリフォルニア大学のバークレイ放射線研究所にいっていた嵯峨根(遼吉)
さん(東大物理学科教授;長岡半太郎先生の5男)が帰国されるというので、仙台に来て貰い講演して貰ったのだが、そのインパクトは強烈で、東北大学でも、自分を含め沢山の人間が影響を受けたのだよ。
K:私もその一人だったのです。理由は他にもありましたが、あの講演に刺激されたことは 間違いありません。感激して原研へ試験受けに行ったのですから。
W:駒形(作次)君(電気試験所長から工業技術院長を経て原研理事長)が面接したんだろう。
K:そうです。面接の時は副理事長でしたが、入所時には理事長になっておられました。駒形さんが先生と大変親しいご関係にあったことは、そのとき知りませんでしたが、先生を大変に尊敬して居られることは実感しました。先生が偉いと弟子というのはその恩恵に与ることがある、ということを今になって実感し、改めて身の幸せを感じます。40数倍という競争率でしたが、何とか合格できたのは先生のお蔭だったのです。
原研では放射線の計量についての研究を始めたのですが、その際、先生が昭和25年(1950 年)に書かれ、八木先生の還暦祝いに捧げられた「空間電荷電導論」が大変に有用でした。放射線の計量も、感度や精度の点で、電気を介して行うに如かないので、関係する文献を読みあさっていたのですが、苦労して探し出して読んだドイツ語の論文の幾つかが、既に先生のこのご本に要領よく書き込まれていることを後になって知り、吃驚したものです。
W:何事も基本的なことはキチンと勉強しなければならないのです。役に立ったとは嬉しいね。
K:先生の授業で「半導体工学」というのがありましたが、当時ご執筆中の「半導体とトランシスタ」(後にオーム社から2分冊にして出版され、電気学会から文献賞受賞)のゲラ刷りを手に講義して下さいました。内容は殆ど半導体と半導体素子の物理という感じでした。
W:わしは「トランシスタ」と訳したが「トランジスタ」が定着してしまったよ。
K:私も放射線の単位 kerma を「ケルマ」と訳したのですが「カーマ」となってしまいました。
W:ところで、最近は、学生の学力低下がひどくなっているらしいが。
K:そのことになりますと、先生のご姻戚に当たられる、野邑雄吉教授のことを思い出さずに居られません(ご長男の夫人が野邑先生のご長女)。野邑先生にはルジャンドルとかベッセル、ガンマ関数など濃密な講義で随分しごかれました。このような特殊関数は、卒業後、年に1,2度しか必要となる場面に出くわしませんでしたが、私の拙い研究にも随分役に立ちました。ところが、今、学生や若い研究者にこのような特殊関数を使って話をしても殆ど通じません。学力低下は実は学生だけでなく大学の教員や一部大学の学長にまで及んでいる感じで、日本全体が沈没しかけています。
W:君たちがしっかりしないからだよ。西澤君にもしっかり頼むと伝えてくれ。
K:大分前ですが、西澤先生にも同じような感想を申し上げたら「君もそんなことを言うような歳になったのか」と顔を見つめられてしまいました。そういえば、私が学生の頃、西澤先生は「論文を書いても渡邊先生が仲々投稿のお許しを下さらない」といって嘆いて居られました。厳しいご指導をされていたのですね。それから、西澤先生は助教授時代、全ての論文を先生との共著になさっていました。一昔前なら当たり前と思われる、このような美徳も、最近では滅多に見られなくなってきたように思われます。
W:下界のことは余り知らない方が良いようじゃな。
K:夢の中でお目に掛かっているせいか、関連して色々のことが思い起こされてきます。野邑先生といえば、高野先生(知彦教授)の電磁気学単位系についての研究発表に、大変厳しい質問とコメントをされたことを思い出します。学問を究めることの厳しさを教わりました。
また、高野先生といえば、宮城学院女子大学で助教授をしておられた妹さんが、リサイタルで、W.カンディフさん(同大音楽科教授)と連弾でモーツアルトの「四手のためのピアノソナタ」 を演奏されたときのハプニングも懐かしい仙台時代の想い出です。
W:青春の想い出は良いものだ。
K:カラヤンがベルリンフィルを引き連れて2度目の来日をされたとき、仙台でも演奏するというので、 2.5k\という大金を叩いて切符を買い、聴きに行った(1957年11月21日仙台公会堂)のですが、カラヤン急病で現れず、代わりに棒を振ったのは副指揮者のヴィルヘルム・シュヒターでした。
 「良い音楽というものはメシを食わずとも聴きに行くものだ」とドイツ語の先生に言われ、3食付寮費1月分に相当する切符を買ったのでした。
W:確か、急病のお詫びにプログラムが無料で配られたよね。
K:ええ、あの晩のモルダウは良かったです。
大分長いことお邪魔をしてしまいました。そろそろお暇しますが、最後に、最近心を痛めていることを披露させて下さい。いま日本では社会の階層に格差が広がりつつあると言われています。そして、金持ちの親に恵まれないと上質の教育を受けにくくなっているような気がしています。そんなところに、最近、先生が(旧制)一高時代、三菱から奨学金を受けて居られたことを知り、何故かとても感激しました。
天国からこれからも下界の私たちを暖かく見守っていて下さい。
W:神様に“日本のこと宜しく”とお願いしておくよ。
<完>

本稿は、本誌43号(1996年)に掲載された『天国に渡邊寧先生を訪ねる』(41-49頁)を、事務局員(当時)のお一人(KHさん)の強いお勧めに従い、一部に加筆修正を施して、再掲載するものです。字体の調整等にお助け戴いたKHさんにお礼を申し上げます。
最後の方に出てくる、マエストロ・カラヤンの“代振り”を、当初サヴァリッシュと書きましたが、それは“思い込みによって刷り込まれていた間違い”でした。サバリッシュが2012年02月22日に亡くなったとき新聞で来日の記録を読み、自分の記憶違いに気が付きました。正しくは、当時無名に近かったヴイルヘルム・シュヒターでした。音楽通の住田健二先輩(阪大名誉教授/元原子力安全委員)によると、マエストロの風邪は“お弟子さんの売り込み”のためだったのではないかという噂が、当時業界の一部に、流れていたそうです。実際、シュヒターはその2年後(1959年)にNHK交響楽団の指揮者に迎えられています。

                                              工学部長室での渡邊先生(昭和32年)


                                                               渡邊先生(左)
                                                      

「エネルギーレビュー」誌投稿記事 by 加藤2017/06/14 16:41

加藤兄から[エネルギーレビュー」誌に投稿した記事の別刷りPDFファイルが送られてきました.
よろしかったらお読みいただきたいとのことですので,掲載いたしました.
本サイトには最初のページの画像を表示してあります.フルテキストはGドライブに置いてありますので表示されているURLにアクセスしてご覧下さい.