新井秀雄君の想い出 by 三浦,今泉2010/04/20 20:57

新井 秀雄君を想う


彼は勤務先の川崎航空機工業㈱岐阜製作所で思いもよらない業務上事故で昭和42年2月27日急逝しました。 じつは翌日仙台の実家に結婚予定者のガールフレンドを引合わせるため帰郷することになっていたと実兄から聞きました。当時私は室蘭に在住で、仙台での告別式に参列しました。その式で黙礼しましたが言葉をかけられませんでした。色白で目鼻の目立つ美人でした。こんな厳しい悲劇はありません。私共の結婚には彼からお祝いの品を頂きましたのでなおさら複雑な気持ちでした。  合掌


 新井君とは昭和234月東北学院中学校入学から333月東北大学電気工学科卒業まで共有の時間を持てた親友でした。23年当時私立新制中学は2部授業制であり未整備でしたので。 優秀な?生徒が東北学院中学に集まったようです。東北大学に15名ほど同期で入学しました。相原君、故阿部君も同じ仲間です。彼は体力に恵まれており中学から大学までバレーボールをやりエースとして活躍しました。長身で色白ですので女性にもてました。当時フォークダンスが大流行で大学の体育館で週1回あり、彼は熱心にやっていました。また声もよくムージカルが大好きで、また民謡も上手でした。彼の家で実兄から宮城県民謡「さんさ時雨」を私も指導してもらったこともありました。社会に出たら故郷の民謡を一つぐらい歌えないと駄目だともいわれました。彼は入社してからも趣味活動、労組活動、労音活動でも多くの方々に愛された人生だったことを知り本当に素晴らしい新井君だったと感じました。大学3年?新井君の東京在住のガールフレンドとその友達及び三浦の4人、松島での記念写真がありましたので紹介します。撮ってくれたのは誰かな?

懐かしいね、若いね!!

義兄は洋服屋さんで三浦の初背広を作ってもらった事、今泉も親友で彼の下宿先

で一緒に学期試験勉強をやった事、仙台のガールフレンド3人を入れXmas party

をやった事、全て楽しい想い出です。50余年前のこと、記憶の間違いがあるかと思いますが、お許し下さい。 


友人新井,今泉を尋ねて 宮本,今城さん 来仙  松島で記念写真

楽しかった 一日

と裏書き


     

50.10 大寺の新井の姉さん宅  私の悪友たち


平成22420日  三浦 達男


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新井 秀雄君の想い出


 新井君とは教養部の実験グループが一緒だったことがきっかけで友達になった。卒研の研究室が同じ菊地研で一層親しくなった。彼は仙台市出身、私は関東(栃木県)出身なので仙台地方独特の言葉や市内の地理、食べ物などをいろいろ教えてもらった。


 彼は歌が得意で「さんさしぐれ」をよく歌っていた。私にも教えようとしたが私には難しく結局ギブアップした。また彼に誘われてフォークダンスに参加してみたら女子大生たちが大勢参加しており、彼女たちの間では新井君は有名人だった。彼はスポーツマンで、運動神経に優れていたのでダンスもうまかった。毎週土曜日、市内のどこかの体育館で開催されるのだが彼は熱心に通っていた。私も彼に引っ張られて次第にのめり込んで行った。


 夏休みの企業実習で新井君と私は日本飛行機(株)厚木工場へ行った。期間中の休日(土日)は東京見物などで過ごしたが、何回かフォークダンスに参加した。地方新聞など情報網を駆使していつどこでフォークダンスがあるかを探し当て、見知らぬ人ばかりの会場へ乗り込んだ。その時知り合ったガールフレンド2人が後日松島で新井君、三浦君とデートしたらしい(?)。


 新井君は航空機のパイロットになりたいという夢を持っていたのではないか?今となっては記憶が定かではないが学生時代にそう言っていた様に思う。実習先が日本飛行機で就職先が川崎航空機工業というのは偶然ではなく、彼の強い意志が働いていたと思われる。パイロットの件はともかく航空機に強い関心を持っていたことは確かだ。


 新井君の職場の人達が作った追悼文集によれば、彼は労働組合、労音、フォークダンスなどの活動でリーダー的存在だったようだ。それは学生時代の友人であった私にも十分想像できる。それらに加えて「魚つり」が生前の趣味の一つだったことを私は初めて知った。彼は獲物を携えて行きつけの居酒屋で調理してもらい仲間たちとワイワイやるのが恒例だったという。いかにも彼らしいと納得した。


 卒業後、彼の就職先が岐阜で大阪の私とは距離も近いのに何故か一度も会っていないのが不思議であり残念でたまらない。そのときの罪滅ぼしのため、燦々会のホームページに彼の存在記録を残すのは親友としての義務と考え拙文を捧げることにした。


平成22420日   今泉 秀雄


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                    新 井 秀 雄(あらいひでお)君の略歴


昭和十年四月十三日仙台市にて生まる。昭和三十三年三月東北大学工学部電気工学科を卒業。同四月、川崎航空機工業株式会社へ入社。岐阜製作所(航空機)技術部に所属。以後一貫して、誘導飛翔体及び関連電子機器の設計、研究に従事。その間、昭和三十四年四月川崎航空機労働組合青年婦人部創設に参加。以後昭和三十五年迄文化部長。昭和三十七年十一月以降、川崎航空機労働組合常任幹事教宣部長として活躍。又昭和三十四年十月、文化会フォークダンス部を創設、終始トップリーダーとして多くの後輩を育成。更に文化会合唱団、労音合唱団に参加すると共に、岐阜労音運営委員として優れた活動家を多数生む。スポーツの面でも、文化会バレーボール部の中心として各種の大会に出場。その他大の魚つり好きで寸暇をさいて太公望をきめこむ。人間を愛し、酒を愛し、音楽を愛す。


昭和四十二年二月二十七日会社の技術試験室において、電子部品の振動試験実験中、六千ボルトの高電圧に触れて、三十二年間の短い生涯を閉じた。


                     (職場の同僚による故新井秀雄追悼文集から引用)

コメント

_ 今泉 ― 2010/04/23 11:37


新井秀雄君の想い出」掲載の経緯

1.最初は松沢さんが三浦さんへ送った燦々会名簿がきっかけだった。
 三浦さんが今泉に宛てた手紙の中に次のように記している。「松沢さんから届いた名簿を見て新井君の備考欄に「逝去」と記入があり、命日の記載がないことに気づいた。新井君が事故死した当時の様子を知っているのは自分しかいない。従って自分が何とかしなければならないと思った。」
1A.奥さん名入り燦々会名簿作成につき補足説明する。
ご承知の通り青葉工業会は死亡を連絡すると奥さん宛に弔電を出してくれる。
市川敦雄氏の場合、メールで届けたら通夜の席に間に合い奥さんからさすが東北大学は!と感謝感激された。
味をしめて名簿に奥さん名を入れ、万一の時奥さんが連絡すべきメールをする同級生二名を予約しておく事前準備運動を進めている次第。
三浦君の場合、一人は今泉君に頼む積りと話していた。(本項は松沢追記)
2.三浦さんは家中を探したあげく、「故新井秀雄の追悼文集」を見つけた。そして2年前の今泉との約束を思い出した。それは卒業50周年行事で松島へ集まった時「今泉に追悼文集を見せる。」というものだ。

3.今年2月、三浦さんが新井君の命日(2月27日)の頃に追悼文集を今泉宛に送って来た。そのときの手紙に、「親友の新井君が俺のことを想い出してくれよ。」と言っているように思う、と書いている。

4.今泉がその文集を読んでいたく感動した。新井君の人柄が偲ばれるものばかりだが、書いた人は生前新井君と親しくしていた社内外の人達だ。この文集をどのように活用したらよいか松沢さんと遠藤さんに相談した。松沢さんは「三浦さんに想い出を書いてもらうのがよい。」と言い、遠藤さんも賛同した。

5.今泉が三浦さんに手紙を出し、「新井君の想い出」を是非とも書いてくれるようお願いした。三浦さんが書いてくれることを前提に、今泉自身も書くことを約束した。

6.4月に入ってから、三浦さんが書いた追悼文が今泉宅に届いた。それから急いで今泉は自分の文章をまとめ、三浦さんへ手紙を添えて送った。その中で、三浦さんがインターネット未使用であれば、彼の文章を今泉が代筆で真瀬さんに送信するむね伝えた。

7.数日後、三浦さんからよろしく頼むとの返信があった。そこで4月19日、松沢さん、遠藤さん、真瀬さんにメールを送った。それ以降のことは真瀬さんもご存知の通り。

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