好漢 武田偉彦君 死す! by 松沢,油谷 ― 2011/05/02 18:57
平成23年2月16日武田偉彦(ヨリヒコ)君が大腸がんで死亡した。
関係者への通知は間を置いてから行えとの本人の遺言があり、燦々会/遠藤幹事への
連絡は4月23日となり、4月30日に都合のつく人だけで遺族宅を弔問した。
東日本大震災や大型連休がからむ中、都合をつけた7人で行ったわけである。
(遠藤、志村、内山、佐々木、吉田宏、油谷、松沢)
●武田偉彦夫人、敦子さんよりの連絡メール
青葉若葉が目にまぶしく感じられる時節になりました。
お変わりなくお元気のご様子にてなによりと存じ上げます。
私の気持ちの整理がなかなか出来ずにご報告が遅れました。
夫、武田偉彦は2月16日大腸がんにてあの世に旅立ちました。
病状が判りましてからも出来るだけそれまでの生活を続けており、
スポーツや旅行も楽しんでおりました。その間、病についてついぞ
愚痴らしき事はいわず周囲にもとりたてての気を遣わせず穏やかな
1年9ヶ月でした。
入院は1ヶ月で、その間に息子たちにも葬儀の希望を述べ、自分の
関係の皆様には後日お知らせするようにと申しておりました。
永い間本当にお世話になりました。ありがとうございました。
心よりお礼申し上げます。 みなさまのご多幸をお祈りしております。
●数々の弔電メールから
(真瀬) 昨年の新年会で病気のことを告げられ案じておりました.あの独特の語り口
での会話が出来なくなってしまいました。残念です。今は,ご冥福を祈るばかりです。
(藤井)名古屋の藤井です。武田さんのご逝去のお知らせ有り難う。残念ながら出席できません。
昨年の新年会で、二人で大腸がんのことを語りあいました。私の次男もそうで切実でした。
その後、5月ごろ病院の待合室で遠くから彼を見ましたが、付き添いのかたがおられたので挨拶は遠慮しました。私の息子も2月19日にこの世を去りました。なにか因縁を感じ、ご冥福をお祈りするのみです。御苦労さま、よろしくお願いします。 合掌
●4月30日に遺族宅を弔問、約2時間懇談し故人を偲んだ。遺族宅は京急線金沢八景駅から
バスで10分ほどの閑静なパークタウンにあった。
(武田夫人)主人は定年後関連会社に少しいてから韓国三星重工業に3年間勤務した。
夫婦同伴で、釜山と馬山の中間にある昌原市(チャンオン)に居住したが思ったより快適だった。
(夫人)現在一人住まいだが二人の子らが気を使ってか、煩雑なほど4人の孫を入れ替わり立ち替わり訪ねてくれるので結構忙しい。
(志村)大学時代、下宿が同じ北山で偉彦と一緒に囲碁を習い始めよく対戦した。たがどんどん歯が立たなくなり、最後は四段と称していた。ボランテアで老人会の囲碁指導をしていた由だが、部屋にある6寸碁盤をみても意気込みがわかる。
(松沢)上記の藤井メールのようにH22新年会で偉彦と病気の話をした人が多いが、私はその前の首都圏会の集まりに横浜中華街に歩いて行きながら、毛が抜ける、爪が黒ずむ等の抗がん剤の影響を話した気がする。
もうあのひょうひょうとした話しぶりが聞けないのは残念だ。ご冥福を祈る。
(文責)松沢喜久雄、(写真)油谷次郎
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好漢新井君を想う by 藤井 ― 2010/04/22 16:25
好漢新井君を想う
藤井 郁雄
学生時代には、新井君はア行私はハ行ですから実験等でご一緒することもなく、イケメンの明るいスポーツマンの印象をもっての卒業でした。私は中部電力に入社し、昭和35年7月から本店へ転勤する40年6月まで岐阜支店に勤務しましたが、当時岐阜市には柳ケ瀬と言う歓楽街があり、名古屋からタクシーを飛ばしても安く遊べるとの噂でした。その柳ケ瀬の一画に千代野というB級居酒屋があり、熊本と宮崎の県境出身の姉妹(姉は10歳位上、妹は同じ位)でやり繰りするこじんまりした品の良い店で、私は月に2~3回通う常連でした。38年か39年頃、会社の帰りに千代野に顔を出したところ、会社の上司同僚と意気軒高の東北弁混じりの耳にしたことのある甲高い声?新井君でした。川重は岐阜市から20キロ位の各務原市に在り、毎週末顔を出していた様子、その後2回ほど同席しましたが、双方会社の同僚と一緒でしたので挨拶程度、二人でいずれやろう!と約束して私は名古屋へ転勤。そして、音沙汰なしで過ぎ42年に千代野に顔を出したところ、新井君が1か月前に急逝されたと知らされたのです。姉妹は仙台の葬儀に出席されたとのこと、新井君の人柄が偲ばれ心温まるお酒を頂いたことを思い出す。
新井秀雄君の想い出 by 三浦,今泉 ― 2010/04/20 20:57
新井 秀雄君を想う
彼は勤務先の川崎航空機工業㈱岐阜製作所で思いもよらない業務上事故で昭和42年2月27日急逝しました。 じつは翌日仙台の実家に結婚予定者のガールフレンドを引合わせるため帰郷することになっていたと実兄から聞きました。当時私は室蘭に在住で、仙台での告別式に参列しました。その式で黙礼しましたが言葉をかけられませんでした。色白で目鼻の目立つ美人でした。こんな厳しい悲劇はありません。私共の結婚には彼からお祝いの品を頂きましたのでなおさら複雑な気持ちでした。 合掌
新井君とは昭和23年4月東北学院中学校入学から33年3月東北大学電気工学科卒業まで共有の時間を持てた親友でした。23年当時私立新制中学は2部授業制であり未整備でしたので。 優秀な?生徒が東北学院中学に集まったようです。東北大学に15名ほど同期で入学しました。相原君、故阿部君も同じ仲間です。彼は体力に恵まれており中学から大学までバレーボールをやりエースとして活躍しました。長身で色白ですので女性にもてました。当時フォークダンスが大流行で大学の体育館で週1回あり、彼は熱心にやっていました。また声もよくムージカルが大好きで、また民謡も上手でした。彼の家で実兄から宮城県民謡「さんさ時雨」を私も指導してもらったこともありました。社会に出たら故郷の民謡を一つぐらい歌えないと駄目だともいわれました。彼は入社してからも趣味活動、労組活動、労音活動でも多くの方々に愛された人生だったことを知り本当に素晴らしい新井君だったと感じました。大学3年?新井君の東京在住のガールフレンドとその友達及び三浦の4人、松島での記念写真がありましたので紹介します。撮ってくれたのは誰かな?
懐かしいね、若いね!!
義兄は洋服屋さんで三浦の初背広を作ってもらった事、今泉も親友で彼の下宿先
で一緒に学期試験勉強をやった事、仙台のガールフレンド3人を入れXmas party
をやった事、全て楽しい想い出です。50余年前のこと、記憶の間違いがあるかと思いますが、お許し下さい。
友人新井,今泉を尋ねて 宮本,今城さん 来仙 松島で記念写真
楽しかった 一日
と裏書き
‘50.10 大寺の新井の姉さん宅 私の悪友たち
平成22年4月20日 三浦 達男
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新井 秀雄君の想い出
新井君とは教養部の実験グループが一緒だったことがきっかけで友達になった。卒研の研究室が同じ菊地研で一層親しくなった。彼は仙台市出身、私は関東(栃木県)出身なので仙台地方独特の言葉や市内の地理、食べ物などをいろいろ教えてもらった。
彼は歌が得意で「さんさしぐれ」をよく歌っていた。私にも教えようとしたが私には難しく結局ギブアップした。また彼に誘われてフォークダンスに参加してみたら女子大生たちが大勢参加しており、彼女たちの間では新井君は有名人だった。彼はスポーツマンで、運動神経に優れていたのでダンスもうまかった。毎週土曜日、市内のどこかの体育館で開催されるのだが彼は熱心に通っていた。私も彼に引っ張られて次第にのめり込んで行った。
夏休みの企業実習で新井君と私は日本飛行機(株)厚木工場へ行った。期間中の休日(土日)は東京見物などで過ごしたが、何回かフォークダンスに参加した。地方新聞など情報網を駆使していつどこでフォークダンスがあるかを探し当て、見知らぬ人ばかりの会場へ乗り込んだ。その時知り合ったガールフレンド2人が後日松島で新井君、三浦君とデートしたらしい(?)。
新井君は航空機のパイロットになりたいという夢を持っていたのではないか?今となっては記憶が定かではないが学生時代にそう言っていた様に思う。実習先が日本飛行機で就職先が川崎航空機工業というのは偶然ではなく、彼の強い意志が働いていたと思われる。パイロットの件はともかく航空機に強い関心を持っていたことは確かだ。
新井君の職場の人達が作った追悼文集によれば、彼は労働組合、労音、フォークダンスなどの活動でリーダー的存在だったようだ。それは学生時代の友人であった私にも十分想像できる。それらに加えて「魚つり」が生前の趣味の一つだったことを私は初めて知った。彼は獲物を携えて行きつけの居酒屋で調理してもらい仲間たちとワイワイやるのが恒例だったという。いかにも彼らしいと納得した。
卒業後、彼の就職先が岐阜で大阪の私とは距離も近いのに何故か一度も会っていないのが不思議であり残念でたまらない。そのときの罪滅ぼしのため、燦々会のホームページに彼の存在記録を残すのは親友としての義務と考え拙文を捧げることにした。
平成22年4月20日 今泉 秀雄
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新 井 秀 雄(あらいひでお)君の略歴
昭和十年四月十三日仙台市にて生まる。昭和三十三年三月東北大学工学部電気工学科を卒業。同四月、川崎航空機工業株式会社へ入社。岐阜製作所(航空機)技術部に所属。以後一貫して、誘導飛翔体及び関連電子機器の設計、研究に従事。その間、昭和三十四年四月川崎航空機労働組合青年婦人部創設に参加。以後昭和三十五年迄文化部長。昭和三十七年十一月以降、川崎航空機労働組合常任幹事教宣部長として活躍。又昭和三十四年十月、文化会フォークダンス部を創設、終始トップリーダーとして多くの後輩を育成。更に文化会合唱団、労音合唱団に参加すると共に、岐阜労音運営委員として優れた活動家を多数生む。スポーツの面でも、文化会バレーボール部の中心として各種の大会に出場。その他大の魚つり好きで寸暇をさいて太公望をきめこむ。人間を愛し、酒を愛し、音楽を愛す。
昭和四十二年二月二十七日会社の技術試験室において、電子部品の振動試験実験中、六千ボルトの高電圧に触れて、三十二年間の短い生涯を閉じた。
(職場の同僚による故新井秀雄追悼文集から引用)
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